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2012年1月28日 (土)

挿頭花

Photo_2 1月28日(土)承前。NHKTVドラマ『平清盛』の2回目を見た。元服した清盛が、石清水臨時祭の舞人となって舞を披露するシーンがあった。ちょうどいま『小右記』でも石清水臨時祭の下りを読んでいるので、どんなふうに映像化しているかと垣間見たが、やはり想像したものとはずいぶん違っていた。録画していないので不確かなのだが、このとき舞人である清盛は冠にどんな挿頭花をつけていたかしらん。挿頭花は文字通り冠に挿す花のことで、行事や祭の際に参加者がつけたもの。いまでも5月15日に行われる葵祭(賀茂祭)では参列者が冠に葵や桂を挿す。平安時代の有職故実書『江家次第』には、賀茂祭の試樂(予行演習)の舞人は挿頭に呉竹を挿す、とある。試樂のとき、祭使や舞人たちは内裏において盃や挿頭花をもらうのだが、ある年の試樂で舞人となった藤原実方は遅刻して挿頭花をもらえなかった。そこで遅れて参加する際、清涼殿の庭の呉竹を折って冠に挿したところ、これが優美だと評判になった、という話が『十訓抄』や『古事談』にある。(こんな洒落たことをする実方なのに、宮中でつまらぬ喧嘩をしたせいで、「歌枕見てまいれ」と陸奥に左遷され、都に帰れぬまま999年に没した。気の毒なことです) さて、賀茂の臨時祭試樂では舞人の挿頭花は呉竹だが、清盛が舞人となった石清水臨時祭では何だったのか。ドラマの中では、清盛は緑の葉を挿頭花としていたようだから、多分あれは笹の葉ではないかと思う。

 写真は京菓子「清浄歓喜団」。奈良時代、遣唐使によって伝えられた唐菓子の一つで、千年の歴史を持つ。もとは密教のお供えもので、七種の香や木の実、餡を包んで胡麻油で揚げたもの。うーん、なんとも複雑な味がします。薬膳料理をいただいたときのような・・・。このお菓子は清浄潔斎した職人さんによって作られるそうで、なんとも有り難いお菓子です。

旅の仲間

P1280061 1月28日(土)曇り。窓の外は白い靄に包まれて、双ケ丘がわずかに黒い連なりで見えるのみ。白い靄は雪雲かしらん。嵯峨野も嵐山もすっぽりと白いベールのかなた。昨日はある会の新年会で夕方から外出。新町通の京料理屋「木乃婦」で会食。暖簾をくぐって奥へと続く通り庭に紅白の餅花がいっぱいに飾られて、まだ新春気分。季節ゆえ、カニ、蕪蒸し、つぼみ花の揚げものなどが出た。おつくりはヒラメ、モンゴウイカ、伊勢エビなど。そうそう最初に出た白子の茶わん蒸しもなかなかいけました。隣に座ったTさんの話。「1200CCのバイクで全国各地に出かけている。ほとんどが単独行だが、思い立ってすぐ行動に移せるから独りの方がいい。今年は北から島々を巡る予定です」。バイクは全身が風にさらされるので、体力が要ることだろう。だが最近のシニアライダーは元気だ。彼らを見ていると、バイクは大人の乗り物ということを実感する。

 夜、●澁澤龍彦・堀内誠一の往復書簡集『旅の仲間』(晶文社 2008年)を読む。フランス文学者とグラフィックデザイナーの間で交わされた親密でエキサイティングな書簡の数々、なかでも画家だった堀内の手紙はほとんどが彩色画付で、それだけ眺めても魅力的。画家がフランスに滞在中、澁澤龍彦もヨーロッパに出かけたりして、「旅の仲間」の見聞はじつに幅広いものがある。実際二人は雑誌(「血と薔薇」や「anan」など)の仕事仲間でもあり、美術、映画、文学など共通の話題にはことかかなかった。いちばん早い手紙は1968年のものだが、ひんぱんに手紙が行き来したのは1970年代後半か。1977年3月26日の澁澤龍彦の手紙には、「僕自身はまったく相変らずの日常で、江戸時代の随筆を読んだり、そうかと思うとスペイン16世紀の詩人ゴンドラの本などをぱらぱらめくって拾い読みしたり、もう今では、おどろおどろしいオカルトだの何だのについて書く気はなくなり、このままの状態が続けば、やがては小説でも書くより以外には行き場がないんじゃないか、と思うようになってきています」とあり、2年後には『唐草物語』の連載が始まっている。奇しくも二人は相前後して同じ病(喉頭ガン)を患い、澁澤は1987年8月5日に死去。堀内は澁澤に12日遅れて、8月17日に逝去。澁澤の享年59歳、堀内は54歳と、ともにまだ若い死であった。

 写真は『旅仲間』の一ページ。最後の手紙は亡くなる年の6月23日消印がある作家から画家へあてた葉書で、そこには「いま『高丘親王航海記』に加筆中です。秋には本になります。貴兄もどうか御養生専一に いつのまにか夏になりましたね」とある。二人はそれから間もなく亡くなったので、上梓された『高丘親王航海記』を手にすることはなかった。高丘親王は平城天皇の皇子で、864年、入唐求法を志して唐に渡り、さらに天竺を目指す途中、マレーシア辺りで亡くなったといわれている。この本を読むと、高丘親王と作者が重なり、龍彦親王がいまもマレーシア辺りを彷徨しているのではないかと思われるほど。

2012年1月26日 (木)

高松殿

Photo 1月26日(木)晴れ。厳しい寒さ。カナダの友人からメールあり、当地の極寒の様子をyoutubeに投稿したと画像の紹介あり。バケツにいれたお湯を空中に撒くシーンで、それが一瞬に凍って真っ白の煙のようになる。えらいところに住んでいるのだなあ、と驚くのみ。北海道の友人からは積雪が2メートルを超したので冬籠り中という写真が届く。カナダや北海道に比べれば京都の寒さなど、「なんのことのあらすかえ」なのだろう。でも寒い! 九州育ちには京の寒さは堪えます。

 

 昨日、姉小路通を歩いていたら「高松神社」があったので、ちょっとお参り。ここは10世紀ごろ醍醐天皇の皇子で西宮左大臣と呼ばれた源高明の邸だったところ。娘の明子はここに住んで高松殿とよばれ、藤原道長の室となった。明子の娘寛子が三条天皇皇子小一条院と結婚したため、ここは小一条院御所となったが、治安元年(1021)に焼亡。のちの1146年、鳥羽天皇によって再建され、1155年には後白河天皇がここで即位している。保元の乱(1156)では後白河天皇の本拠地となり、源義朝や平清盛らの軍勢はここに参集し、ここから崇徳上皇方の白河北殿へ攻め込んだ。平治の乱(1159)で焼失。平安時代から院政期の始めごろには華やかな歴史の舞台となった場所なのだ。いまはごくごく小さな社が在るのみだが、当時は方一町(一辺が120メートル)の広大な敷地を占めていた。藤原道長には源氏出身の倫子と明子という二人の妻がいたが、道長と同居していた倫子に比べると明子の方はなんとなく影が薄い。どちらにも同じ年頃の子どもたちがいるのだが、倫子の息子たちのほうが昇進も早く、なにかにつけ優遇されている。一条帝の中宮となり二人の皇子を生んだ彰子が倫子の長女ということもあるのだが。明子はのち、近衛御門と呼ばれたから近衛通にも邸があったのだろう。高松神社の前を通るたびに、明子を思う。彼女に関する史料は少なく、夫道長の日記『御堂関白記』にも僅かしか出てこない。『栄花物語』などにも、くっきりとその人となりが浮かぶような記述はない。このころは女性の書き手が活躍した時代だが、「高松殿」の手掛かりはごく僅かなのだ。まあ、『源氏物語』の作者・紫式部だって、いまもって名前は「不明」なのだから、公式文書に載らないかぎり女性の名前は残りませんね。

 写真は姉小路通西洞院東の高松神社(高松殿跡)。

2012年1月23日 (月)

狸谷山不動院

Photo_2 1月22日(日)曇り。日曜日の午後、立命館朱雀キャンパスの陽明文庫連続講座に行く。この日は第一回目で陽明文庫理事の名和修氏による「『御堂関白記』について」。陽明文庫には国宝となっている藤原道長の自筆本をはじめ後世の古写本、御記抄本など複数の『御堂関白記』がある。古写本にもいくつもの種類があり、誰の手になるものか、時代やその裏付け、検証などが要領よく紹介されて、興味深かった。昨秋、宇多野の陽明文庫を訪ねて、貴重な典籍を見せてもらったが、幾多の戦乱、火災を潜り抜けて、千年も生き残った貴重書の数々にただ「奇蹟だ」と思うばかりだった。『御堂関白記』の見返しには道長の字で、「件記〇非可披露早可破却者也」(件の記は披露すべきに非ず、早く破却すべき者也)と記されている。名和氏いわく、「もしこれが守られていたら、いまここに『御堂関白記』は存在しないのです。子孫が道長の命を守らなかったおかげで摂関期最大の政治家の日記(日誌)が残りました」。

 同じ日の午前中、北白川の狸谷山不動院へ行く。初めていくところ。白川通を東へ入り、詩仙堂や野仏庵、八大神社(宮本武蔵の像あり)などの前を過ぎて急な坂を上っていくと、狸谷山不動院に出る。真言宗系の寺で、もともとは王城の鬼門として桓武天皇勅願の不動尊を安置したのが始まりという。享保年間には木喰上人がここに籠って信仰を集めたといい、境内に上人像があった。岩場が迫り、全体に修行場らしい山容で、宮本武蔵が修行したという滝もあった。懸崖造りの立派な本堂は昭和の建築。いまはガン封じ祈願、車のお祓いなどで訪れる人が多いという。本堂の舞台からは眺望がいいと聞いたが、この日はあいにく小雨模様で見晴らしはゼロ。ガン闘病中の身内の名前を記して護摩木を納めてきた。(こんなことをするのも初めてのことでした)。参道の両側に並んだ寄進者の名を刻んだ石柱に懐かしい芸能人の名前を見る。「花菱アチャコ」と「浪花千栄子」は向かい合って。中村錦之介、中村嘉津雄、中村時蔵は並んで。高田浩吉の隣も役者らしい名前が。同行したFさんはそこかしこに旧知の名前を見つけて「いやあ」と声をあげていた。

 写真は北白川の狸谷山不動院。不動明王は大日如来の使者となって悪を断じ善を修し真言行者を守護する。五大明王の中心的存在だそうだ。毎月28日が不動尊の日で、今月は初不動で護摩焚きがあり、ガン封じの笹酒接待があるという。なんでも飲み放題だそうです。

江戸手妻

Photo 1月23日(月)曇りのち雨。旧正月。朝、TVで神戸の南京町で春節祭が始まったというニュースを見る。今日は旧暦の元日なり。午後、淀の明親小学校へ、藤山新太郎太夫による江戸手妻の公演を観に行く。昨年、祇園のお座敷で太夫の手妻を観て以来のこと。今回は文化庁の主催なので、三味線・鼓・太鼓・琴・笛などの生演奏付。日本の伝統芸を子どもたちに知ってもらおうというので、邦楽の解説と演奏もあって、なかなか楽しいものであった。演奏者は日頃国立劇場や能楽堂などに出演しているベテランばかり、私は専ら演奏を楽しみました。もちろん手妻も素晴らしく、ちぎった和紙を蝶に見立てて蝶の一生を表現する「蝶のたはむれ」、奈良時代から伝わるという(タイトルは忘れた)二人の掛け合いによる瓜をならす芸、そして最後は華麗な水芸。芸が披露されるたびに会場から大きな歓声がわき、子どもたちの素直な反応にこちらも心躍る思いがした。会場のしつらいは江戸時代の芝居小屋といったふうで、口上も文語調だが、子どもたちにはすんなり受け入れられたもよう。終演後、舞台を降りて挨拶にこられた太夫に拍手。淀城跡の石垣を横目に見ながら京阪電車に乗る。京阪四条駅(いまは祇園四条駅といいます)で祇園に帰るFさんと別れる。四条大橋を渡りながら北山を見やると、真っ白な雪雲が迫っていた。今夜は雪の予報。

●粕谷一希『〈座談〉書物への愛』(藤原書店)を読了。なかで、対談相手の一人、森まゆみさんが、いま漱石について書いていて、「漱石の書いたものの中に千駄木の歴史を書いてみようかなと思っています。地域歴史家ですから」といい、「何かそういうものばかり読んでいると、最近出た小説を全然読まなくなっちゃう。原田病で目が悪くなってから本当に、失明しそうになったものですから、いまは自分の仕事にかかわる本だけしか読めない」と語っている。当方も似たようなもので、小説をほとんど読まなくなった。それでも最近読んだもので印象に残っているのは、佐川光晴の『おれのおばさん』と続編の『おれたちの青空』(集英社)。『おれのおばさん』には素直に心動かされました。

 写真はお正月、上賀茂神社にかけられた宝船。船にはちゃんと米俵が積まれています。

2012年1月20日 (金)

あめつちほしそら

2012_0101_111245p1010032  1月20日(金)承前。先日の新聞に、三重県の斎宮跡から「いろはうた」が書かれた平安時代後期の土器が出土したという記事があった。墨書土器は珍しくないが、ひらがなのいろは歌が書かれた出土物としては国内最古のものというのでニュースになったのだろう。斎宮に住む女官たちが文字を覚えるため練習用に書いた手習いの跡だろうとのことだが、もうこのころから「いろはうた」が手本になっていたのか。いろは歌が作られたのは平安中期らしいが、それ以前に使われていた手習いの詞に「あめつちほしそら」がある。「あめつちほしそら やまかはみねたに くもきりむろこけ ひといぬうへすゑ ゆわさるおふせよ えのえをなれゐて」の48文字。どことなくゆかしい響きがあって好きなのだが、平安中期以降は「いろはにほへてとちりぬるをわか」が広まったのだろう。当時は漢字が主流で、ひらがなは女文字として公的文書には使用されなかった。この数日、藤原実資の日記『小右記』を読んでいるのだが、治安元年(1021)3月の条に、かなまじりの箇所があった。道長の日記『御堂関白記』にも時々出てくるが、これが変体仮名なので漢字を読むより苦労する。中野三敏さんではないが、くずし字が読めれば読書の世界はうんと広がる・・・かもしれないが、訓練が必要ですね。

 写真は神泉苑にある我が国唯一の(と立札に書いてあります)歳徳神を祀った「恵方社」。今年の恵方(よい方角)は亥子(北北西)で、社はその方を向いています。(大晦日の夜に動かすそうです)。北北西に進路をとれ-という映画のタイトルを思い出しました。

銀座旅日記

Photo  1月20日(金)雨。朝、横浜の娘より「初雪です!」とメールあり。TVニュースもそればかり。この冬、ずっと雪の中で暮らしている東北・北海道の人はどんな気持ちで関東発のニュースを見ていることやら。

 昨日の午後、大阪から出てきた友人のIさんと、三条通のギャラリーへ、Iさんのおつれあいの個展を見に行く。I氏は美術大学に勤める現代アート作家で、もう40年以上の創作歴をもつ。美術団体「具体」の最年少者だったそうで、早くに才能を開花させた。さまざまな造形のアイディアはどこから生まれるのか、造形作家の頭の中はどうなっているのかしらなどと思いながら作品を見てきた。今月29日まで三条通御幸町北西角のギャラリーPARCで開催中。

●常盤新平『銀座旅日記』(ちくま文庫)を読了。友人たちとの交わり、食べたり飲んだり、時々仕事のことなどが書かれた日々の記録で、山口瞳の『男性自身』シリーズにどこか趣が似ているが、こちらの方は読後感にしみじみとしたものがある。それは書き手が家族や友人など自分とかかわる人たちを大事にして、いとおしむ気持ちを率直に記しているからだろう。青春をともにした前の奥さん(牧子さん)や娘さんと会って食事をするシーンがたびたび出てくるが、これはもう人生の同志とでもいうものではないか。この本はその別れた奥さんである牧子さんとその親友である(妻の親友は作者にとってもそうであった)町子さんの霊に捧げられている。二人はもう彼岸の人で、常盤新平は「私たち三人は友情で結ばれていた」と書く。この日記の連載が「ダ・カーポ」で始まったとき作者は72歳、老いゆくわが身の述懐にもペーソスがある。「抜け毛のように記憶が落ちてゆく」とか、繰り返し同じ話を愉しむことができるのも言ったことをすぐ忘れてしまうからだ、などという下り。(笑うなかれ、やがて誰もがそうなるのです) 岩手生まれの仙台育ちゆえ、このたびの震災ではずいぶん心痛もあったことだろう。この本を読んで、若いころ親しんだアメリカ文学のなかには、この人の紹介になるものがかなりあったのだと今更のように思う。久しぶりに『遠いアメリカ』を読んでみようか。

 写真は京都姉小路通りのギャラリー〇ご(まるご)。もと大村しげさんの家を改装したもの。大村しげさん(1918-1999)は60年間近くこの家に住んで、京都町暮らしのあれこれを書いた。かつて『暮しの手帖』に連載された「京のおばんざい」を愛読したものだが。

2012年1月17日 (火)

南座へ

Dsc01354  1月17日(火)承前。14日(土)、九州から出てきたO夫妻と南座へ前進座の初春公演を観に行く。南座は暮れの顔見世以来だが、日頃はなかなか観劇の機会はない。毎年この初春公演に来るO夫妻に誘われて、ここ数年は恒例行事となった。今年の出し物は山本むつみ作「明治おばけ暦」と三遊亭圓朝の落語をもとにした「芝浜の革財布」。前進座は今年創立80周年を迎えるそうで、幕間に裃姿の中村梅之助による「口上」があった。落語といえば、暮れの顔見世でも上方落語の「らくだ」が歌舞伎になっていたが、これは楽しい芝居で、死人役を演じた役者には笑わされた。「芝浜の革財布」は人情もので、見終わったあと、しんみりとなる。終演後、東山のガーデンオリエンタルで食事。このレストランはもと日本画家竹内栖鳳の邸宅だったところ。部屋の壁にいまも栖鳳の作品がかけられている。窓際の席からはすぐ近くにある八坂塔が見えて、素晴らしい借景。ワイングラスを傾けながら一年分の近況報告など交わす。O氏は芝居好きで、いまもあちこち観劇に出かけて回っているそうだ。「そういえば下北沢の本多劇場で加藤健一が「寿歌」を再演するらしいよ」。「寿歌」を見たのはもう20数年も前のことではないか。核戦争後の世界を描いた作品で、瓦礫の中をリヤカーを曳いていく旅芸人か何かの話だったと思う。物語より加藤健一の声に惹かれた。あんなに声のいい役者は珍しい。「寿歌」の再演は3月初めだそうだ。「これも去年の3・11のせいだろうね」とO氏。

●宮本常一『民俗学の旅』を再読。宮本常一が常々師の渋沢敬三から言い聞かされた言葉。

大事なことは主流にならぬことだ。傍流でよく状況を見ていくことだ。舞台で主役をつとめていると、多くのものを見落としてしまう。その見落としたものの中に大事なものがある。それを見つけていくことだ。人の喜びを自分も本当に喜べるようになることだ。人がすぐれた仕事をしているとケチをつけるものが多いが、そういうことはどういう場合もつつしまなければならない。また人の邪魔をしてはいけない。自分がその場で必要とみとめられないときは、だまってしかも人の気にならないようにそこにいることだ

 渋沢敬三は宮本に、民俗学をはじめ文化科学に関係する知人の人物評をしてきかせたという。尊敬する人に対して偶像崇拝的にならず、正しい評価をして一歩退いて見ることの大切さを教えたのだ、と。そうありたいものです。

 写真は四条大橋のユリカモメ。向こうの建物は南座。

中野章子の洛中日記

P1120016  1月17日(火)晴れ。お正月からずっと冬らしい寒々とした曇り日が続いていたが、今日は快晴。早朝目覚めて、17年前の朝を思い出す。当時はまだ諫早に住んでいたのだが、朝早くラジオのスイッチを入れ、「地震、地震」というアナウンサーの声に驚いてTVをつけて呆然となった。「世界の終り」という言葉が脳裏に浮かび、その日は一日TVの前に釘付けとなった。それから2カ月後に京都へ転居したのだが、空路大阪入りしたとき、伊丹空港が近づくにつれ、眼下に青い色が広がっていったのが忘れられない。被災した建物を覆うブルーシートだとすぐ判ったが、無数の青い点の下にその数だけの被災者がいると思うと何ともいえない気持ちになDsc02877った。先日、西宮の関西学院大学を訪ねたとき、町全体が白っぽいので新興住宅地かと思ったら、「震災後にみんな建て替わりました」とのこと。神戸の町はすっかり復興して、震災の傷跡はなかなか見えにくくなっているが、被災した人たちの心の内はまだまだではないだろうか。あのとき、文明社会の日本で震災で6000人もの人が犠牲になるなんて、と憤りを覚えた。自分が生きている間、もうあれほどの天災は起きないだろうと思ったものだが。天災は忘れたころ、ではなく、まだ生々しい記憶があるうちに再びやって来るのかもしれない。だが私も含めてたいていの人は「いつくるかわからない地震を気にしてはいられない」と思っているのではないかしら。このブログは6年前の1月17日にスタートした。今日はそのささやかな記念日。

●15日(日)の夜、NHKTVで「日本人は何を考えてきたのか」の2回目を見る。これは日本人の近代思想の歩みを辿るシリーズで、この日のテーマは「自由民権 東北ではじまる」。明治初期、自由民権運動が盛んだった東北各地の歴史が紹介されたが、初めて聞くことばかり。会津喜多方もその拠点の一つだったと知り、昨秋福島を訪ねながら何を見てきたのやらと反省しきり。次回は「森と水と共に生きる」で南方熊楠と田中正造という二人の巨人が登場する。

●野坂昭如『しぶとく生きろ』(毎日新聞社)を読む。昭如氏いわく、「無理にアンチエイジングなどといわず、もっとのんびり構えたらいい。老いることで持てるゆとりとは、生きるための何やかやから解放されること、老いに抗い、若さに執着しているうちは叶わぬ。まず何も望まない。望まれない存在でありたい」。そう、老人になって嬉しいことは、周りから期待されることもないし、うるさい義務からも解放される、何より競争しなくていいし、物欲もなくなる、ふふふ、いいことづくめですよ。

写真はまだまだ正月気分。町で見かけた料理屋の松飾り。上は姉小路通りで。下は祇園さん(八坂神社)で。

2012年1月14日 (土)

本の魔法

P1140020  1月14日(土)曇り。●司修の『本の魔法』(白水社)を読む。いまでは自らも文章を書く作家となった画家による、自分が装丁した本と作家たちの回想記。戦後文学を代表する作家たちの装丁をてがけてきた司修が、その中でも心に残る仕事と作家たちとの思い出を綴ったものだが、エッセイというより掌編小説の味わいがある。取り上げられているのは、古井由吉、武田泰淳、埴谷雄高、島尾敏雄、中上健次、江藤淳、三島由紀夫、森敦、真壁仁、河合隼雄、松谷みよ子、網野善彦、水上勉、小川国夫の15人。この中で健在なのは古井由吉と松谷みよ子の二人だけ、ゆえに死者たちへの鎮魂の響きもある。この本を読んで、装丁家が一つの仕事を完成させるのに、ここまで打ち込むのP1140021 か、と驚いた。絵本の挿絵を描くのにアウシュビッツまで出かける、本文は完成しているのに挿絵がなかなか描けない苦しみ、生身の作家にとことん付き合って作品の本質を見極める、作家の人生に共振するものを覚えるまでそれが続く。ゆえにそんな彼が装丁した本からは、表紙が本の中身をすべて語っているような印象を受ける。この人の装丁を初めて意識したのは小川国夫の『天草灘』(潮出版社 1977年)だった。小川国夫が天草を旅したときの紀行文で、装丁した司修も同行していたのではなかったか。もう30年以上も前に読んだきり(書棚を探しても出てこないので不確かな記憶で書くのだが)だが、小川国夫の文章もさることながら、司修の挿画に魅了された。小川ー司のコンビはこののちも長く続いて、『本の魔法』の最後は小川国夫との思い出で締めくくられている。15人の作家との交流はまさに全身全霊でのぶつかりあい(中上健次のように作家からの一方的な、もあるが)で、一冊の本が生まれるまでの、それに関わる人たちの魂の在りようが思われて溜め息がでた。15のエピソードはそれぞれ胸に響くものがあるが、なかでも『河原にできた中世の町』の網野善彦の項がいい。彼は網野善彦に中世の絵巻物の見方を教わり、蒙を啓かれる思いをする。日本の歴史の見方に新説を唱える学者はどこか孤独な影があるが(これは私の独断的感想)、寝そべった彼の背中に画家の幼い娘が乗って、肩もみをするシーンに不覚にも涙が湧いた。

 写真上は『本の魔法』(左)と小川国夫『アフリカの死』(函)。下は『アフリカの死』の表紙カバー。