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2010年3月19日 (金)

海炭市叙景

Dsc066953月19日(金)曇り。近代文学研究を仕事にしている友人と、お互いの誕生日に本を贈りあうようになって10数年になる。私の誕生日、彼女が最初に送ってくれたのが佐藤泰志の『海炭市叙景』(集英社)だった。一読してそのしんとした寂しさと孤独感にうたれた。いまどきこんな小説を書く人がいるのか、と友人に尋ねたら、注目されている人なんだけど、亡くなったの・・という返事だった。佐藤泰志は1949年、函館市生まれ、(あの村上春樹と同年です)。地味だがひっそりと、だがひたむきに生きる若者を描いて切実なものがあったが、1990年自死。たしか妻と三人の子どもがのこされたのではなかったか。その死を新聞記事で見たとき、なんともやりきれない思いがしたのを覚えている。友人が本を贈ってくれたのはそのずっと後のことだった。作風そのままに繊細すぎたのか。先日、日経新聞に『海炭市叙景』映画化の記事が出ていた。「日本がバブルに躍った1980年代、片隅で生きる人々の哀しみや絶望に寄り添い、言葉を紡いだ作家がいた」とある。彼がこの作品を発表したころはバブルに踊っていた日本が、いまはまさにこの小説に書かれたような状況にある。皮肉なものだ。だが映画化されることで、再び彼の作品が読みなおされるとしたら・・・、歓ぶべきなのだろう。友人からは次の年に佐藤洋二郎、その翌年は佐藤正午の本が贈られてきたが、彼女の目の確かさはこの二人の活躍ぶりが証明している。(その後、佐藤という名の作家の本は届きません)。

 今日からしばらく京都を留守にします。写真は「都わすれ」。私は都を忘れることなく帰ってくるつもりです。では、行ってきます。

2010年3月18日 (木)

夕暮の緑の光

Dsc06677  3月18日(木)雨。諌早のNさんより電話あり。みすず書房からこの5月に出る野呂邦暢のエッセイ集のタイトルを教えてもらう。『夕暮の緑の光』。野呂邦暢の第一エッセイ集『王国そして地図』(1977年 集英社)に収められた小文のタイトルからとられたものだろう。編集を担当した岡崎武志さんの選択だろうか、野呂文学のエッセンスが伝わるいいタイトルだと思う。受話器を置いて、早速『王国そして地図』を開いて、「夕暮の緑の光」を読んでみた。

「学生時代、”ブッデンブロークス”を読まなければ、田舎に居ついた疎開児童でなければ、原子爆弾の閃光を見なければ、郷里が爆心地に近くなければ私は書いていただろうか。やはり書いていたと思う。外から来たこれらの事は私にものを書かせる一因になったとしても、他に言い難い何かがあり、それはごく些細な、例えば朝餉の席で陶器のかち合う響き、木洩れ陽の色、夕暮の緑の光、十一月の風の冷たさ、海の匂いと林檎の重さ、子供たちの鋭い叫び声などに、自分が全身的に動かされるのでなければ書きだしてはいなかったろう」 

 この部分が赤鉛筆で囲まれているのは、以前読んだとき深く共感したからだろう。当たり前の生活を大事にしたい、と願った作家の小さなものへの愛、を感じて心を動かされからだと思う。自分の住む町を愛し、その風景をこまやかに描写し続けた野呂邦暢の新編エッセイ集『夕暮の緑の光』をぜひ多くの人に読んでもらいたいと思う。

 写真はだん王さんの椿。

2010年3月17日 (水)

だん王さんの椿

Dsc06682  3月17日(水)晴れ。昨日、知恩院の参道で満開の桜の花を見た。なんという種類の桜だろうか、花びらが小さくて色も薄く白っぽい。お彼岸前に咲くサクラはどことなくはかなげで頼りない。早咲きのサクラといえば毎年三月初めに咲くのが三条大橋東詰にある壇王法林寺のサクラ。昨日立寄ってみたが、西門参道のサクラはもう咲き終わっていた。だが、南側の山門参道の椿が見事な花をつけていて、訪れた甲斐があった。ここの山門には仁王さんではなく、四天王が立っておられる。参道の椿はいずれも花が大きく、その重さに耐えかねるように枝先が垂れていた。

 日一日と春らしくなっている。鴨川の岸辺の柳が青々と芽をふいて、エニシダやミツマタの花がほころびはじめていた。三条大橋近くの桜はこの暖かさが続けば数日で開きそうな感じ。この分では京都御苑の近衛の桜がもう咲き始めたにちがいない。

 京都の町を歩いていて目につくものといえば、辻々のお地蔵さんに軒の上の鐘馗さん、そして家の壁にある仁丹マークの町名板だが、最近この仁丹マークの町名表示板が姿を消しつつあるという。これは医薬品会社の森下仁丹が明治43年(1910)に設置をはじめたものだが、戦災で多くが失われた。100年後のいま京都市内には約800枚が残っているそうだが、15年前には1200枚あったという。15年で4割が消えてしまったわけだ。京都の町歩きでこの町名板に出会うたびにカメラに収めてきたが、古い町家が壊されたり、増改築などの際に消えてしまうことが多いようだ。同じ町名表示板でも時代によって区名が異なっていたり、マークや字体に変化があったりして、なかなか興味深い。

 写真は三条大橋東詰にある浄土宗の壇王法林寺。京都の人たちから「だん王さん」と親しまれている。

2010年3月16日 (火)

魯山人展

Dsc06691  3月16日(火)晴れ。祇園四条の何必館に、開催中の「魯山人を使う展」を見にいく。北大路魯山人は去年が没後50年で、その記念に企画されたものらしい。魯山人の多彩な仕事ぶりが俯瞰できるものになっていて、篆刻、屏風、書、画、多様なやきものなどが一通り並べてあった。そのどれもがしゃれていて、(物欲はないといいながら)身近に置きたくなるところが憎らしい。卓越した美的センスの持ち主だったとは思うが、またこの人ほど毀誉褒貶著しい人はいないだろう。魯山人に関する本は山のようにあるが、人物伝としては3年前に出た山田和の『知られざる魯山人』(文芸春秋)がよかった。とくに京都での少年時代に関しては綿密な調査と聞き取りを基に書かれており、当時の京都画壇も垣間見られて興味深いものがあった。マルチタレント、とはこの人のことを言うのだろう。何をやらせても巧いが才に溺れる、ということはなかったのかしらん。今日見た器の中では、志野と備前に目を惹かれた。大きな根来の盆に小皿を置いたり、分厚い船板に備前の壷を乗せたり、と展示の演出も冴えていて、大いなる趣味人の世界を楽しませてくれた。

 西賀茂の西方寺に北大路魯山人のお墓がある。同じ西方寺にある太田垣連月尼の墓にお参りにいったついでに寺の周辺を散策していて見つけた。魯山人はよく傲岸不遜といわれるが、実は寂しい人ではなかったか。彼がいちばん創りたかったのは何だったのか。料理を盛るための器なら何も装飾はいらない。ただひたすら無に還って、終りにしたかったのではないかしらん。

 写真は魯山人の備前の壷。

2010年3月15日 (月)

あたたかい人

Dsc06624  3月15日(月)曇り。連日、座して資料読みに専念す。たまの息抜きに積んだままの文学書などに目を通しているが、休む暇がないので、年寄りの眼にはさぞ堪えることだろう。高杉一郎の死後に編まれた遺稿集『あたたかい人』を読む。高杉一郎は戦前、改造社の雑誌『文藝』の編集者だった。1944年徴兵され、終戦後のシベリア抑留を経て1949年に帰国、戦後は大学に勤めるかたわら著述、翻訳などに活躍した。帰国後シベリアでの体験を書いた『極光のかげに』(1950年 目黒書店)が大きな反響をよんだそうだが、発行元の経営が左前だったために印税はもらえなかったという。1991年に岩波文庫に入って、ようやく印税を手にしたのではないか。この『あたたかな人』に「こがらしの森」と題するこんな一文がある。彼が復員して6年後の1955年に発表した『盲目の詩人エロシェンコ』(1956年 新潮社)という本は、エスペラント運動を弾圧したスターリンの言語政策に抗議する目的で書かれたそうだが、その本が出たあと、世界各国のエスペランティストが静岡の高杉家を訪ねてくるようになった、といい、

「ある年、ウースターと名のるイギリスの女性エスペランティストが訪ねてきた。そのとき、わが家には前日からの泊まり客がいた。『シベリア物語』の長谷川四郎である。彼は娘たちが付属中学から帰ってくると、いっしょにシベリアの民謡をうたったり、隣り組の割り当て労働になっている庭の草むしりに私にかわって出たりして、夜は私と枕を並べて寝た。背の高いのっぽの彼の足は、わが家の蒲団の外にはみ出た」

 1956年といえば長谷川四郎47歳のころ。その歌声を聴いてみたかった。

 写真は冬枯れのケヤキの樹。一見ポプラのように見えますが、ケヤキで、園芸品種名は「武蔵野1号」というそうです。府立植物園で。

2010年3月12日 (金)

法勝寺の九重塔

Dsc06346  3月12日(金)晴れ。洛西の桂坂に住んでいる友人から電話あり、「昨日の朝、カーテンを開けたら庭に雪が積っていてびっくりしたわ」。洛西は京都市内より寒いのかしらん。15年前、京都で家探しをしたとき、桂坂の家を勧められたことがあった。環境はよさそうだったが、ニュータウンと呼ばれる住宅団地に20年余住んだあとだったので、断った。せっかく京都に住むならやはり市中がいいという気持ちもあったし。いまはJR、地下鉄どちらの駅にも歩いて3分、という至極便利なところにいる。老人には快適なすみかなり。

今朝の新聞に「法勝寺の九重塔の基礎が見つかる」という記事が出ていた。法勝寺は平安時代後期に白河天皇が建立した寺で、そこには81メートルの高さを持つ八角九重塔があった。塔が立っていた場所は動物園の敷地内にあり、園内に写真のような石柱と案内板がある。動物園は法勝寺の南半分にあたり、戦争前までは塔の基壇とみられる土盛りが残っていたという。今回、動物園の園舎を拡げる工事のための試掘調査で発見されたそうだが、塔が建てられたのは1083年、その後たびたび落雷に遭い、1185年には地震のため倒壊した。900年も前岡崎の地に81メートルもの高さをもつ塔がそびえ立っていたなんて、現在の京都にだってそんな高い建物は数えるほどしかありません。

 藤原道長の曾孫にあたる藤原師通(1062-1099)の日記『後二条師通記』を読むと、「法勝寺に参る」、という記事がたびたび出てくる。荘厳華麗なこの寺院が建てられたのは1077年のことだが、この寺地はもともと藤原氏の別業の地で、右大臣師実が献上したもの。師実の長男師通が関白だったのは堀河天皇のときだが、師通は退位したあともなにかと政治に介入する白河上皇に批判的だったらしい。とまれ師通の日記には、この法勝寺と、道長が土御門第の東に建てた法成寺の2寺がよく登場する。当時の藤原氏にとって最も重要な寺院だったにちがいない。

 写真は動物園内にある法勝寺跡の説明版と石柱。

2010年3月11日 (木)

京都の番組小学校

Photo 3月11日(木)晴れ。朝、京都盆地を囲む山々がうっすらと白く雪化粧していた。やはり比良八講の荒れしまいで、弥生というのに寒の戻りがある。室町通の京佃煮屋(永楽屋です)まで買物に出たついでに、京都芸術センターを覗いてきた。ここは元京都市立明倫小学校。少子化のため小学校が統廃合して閉校となった跡に設置されたもの。京都の市立小学校は日本で最初に誕生した学区制小学校である。京都市内に番組小学校と呼ばれる64の小学校がつくられたのは明治2年(1869)というから、明治5年に国が学制公布するより3年も前のことだ。当初は、学校であると同時に区役所・警察・消防・保健所などの役割も兼ねていて、いまも東山区の有済小学校の屋上には当時の時鐘である太鼓望楼が遺されている。学校を作る費用も町の人たちが負担したというから、地域住民が小学校を愛する気持ちにはひとかたならぬものがある。しかしこの10数年余で、番組小学校の統廃合が進み、その数は3分の1弱となった。校名も新しくなって、由緒ある名前が消えてしまったのは残念なことだ。

 数年前、下京区で5つもの中学校が統合して新しい中学校(下京中学校)が生まれたときには驚いたものだが、近く東山区でも3つの小学校と中学校が統合して新しい小中一貫校が誕生するという。3つの小学校は揃って生徒数が200名に満たないのだそうだ。わがマンションには100名を超す小学生がいるというのに。さらに驚いたことには、同じ東山区に来年誕生する小中一貫校は、7つもの小・中学校を統合するのだという。区内で極端に少子化が進んでいるせいかもしれないが、7つもの学校が一つになってしまうとはねえ。

 閉校となった校舎は老人介護施設や地域情報センターなどに再生されているが、なかでも有名なのは国際マンガミュージアム、学校歴史博物館、そして写真の京都市芸術センター。ここは現役時代の建物の雰囲気を残しながら、新しいアートセンターに生まれ変わっている。若いアーチストたちの創作発表の場となっていて、たまに通りかかったときは覗くことにしている。玄関前に薪を背負って本を読む二宮金次郎が立っています。

 写真は室町通にある元明倫小学校、いまは京都市芸術センター。

2010年3月10日 (水)

kiss me violet

Photo  3月10日(水)雨のち晴れ。各地で雪の知らせ。期末のせいもあって何かと忙しい。連日予定を消化しているのに、次々に仕事が追いかけてきて、せっかく買い込んだ本を読む暇もない。あちこちから電話、ファクス、メールあり。こちらからもあちこちへ電話、FAX,メール。昨夜も日付け変更の時間まで電話が鳴りやまなかった。優先順位をつけて一つずつ片付けていく。ああ、頭の中を空っぽにして、のんびり海を眺めていたい。

 ベートーベンの第7シンフォニーを聴きながらパソコンに向う。疲れたときに聴くと、わけもなく涙ぐみそうになる。4月の紅しだれコンサートのチケットと都をどりの観覧券を予約する。白浜のホテルを予約。飛行機のチケットを予約、bk1に本を注文。先月、ガンの手術をしたMさんより「無事生還」の電話あり。快気祝いをしようという話になる。仕事の合間にせっせと『官職要解』と『有職故実』に目を通す。もう好きなことしかしないのだ、と宣言してわがまま隠居で通しているのに、この忙しさはどうだろう。もうしばらくの辛抱なりや。

 今日3月10日は東京大空襲の日。早稲田の学生だったつれあいの叔父は、この空襲で亡くなっている。大阪大空襲は同年(1945)3月13日。大阪ではこの後も空襲が続き、終戦前夜の8月14日まで爆弾が落とされたという。死者は何も語らない。だからこそ生きている者は彼等のことを忘れないこと、思い出すこと、想像すること、だと思う。その人のことを覚えている人がいるかぎり、亡くなった人の魂はその人とともにこの世にある、とわが家の年寄りがよく言っていた。戦後生まれの私には想像するしかないが、今夜は65年前を思うことにしよう。

 写真は府立植物園に咲いていたストック。名前は「キス・ミー・バイオレット」。

2010年3月 8日 (月)

文学の門

Photo3月8日(月)晴れ。愛車を12ヵ月点検に出す。昨日は4人の女性を乗せて、一日氷雨の中をよく走ってくれた。車を出した後、伊勢丹へ行き、洋蘭の鉢とケーキを博多の子どもたちに送る。11日がかれらの結婚記念日なのでお祝いに。ついでに駅南のアバンティ・ブックセンター で本をいくつか。

●荒川洋治『文学の門』(みすず書房)

●太田哲男編『高杉一郎 あたたかな人』(みすず書房)

●中井久夫『樹をみつめて』(みすず書房)

●上田秋成胆大小心録』(岩波文庫) これの原本(秋成の実筆)を去年の秋、天理大学図書館で見ました。

 先月28日に行われたラグビー日本選手権の決勝戦をTV録画で見る。三洋電機&トヨタ自動車。前半はトヨタが12-0とリードしていたが、後半三洋に立て続けにトライを奪われ、22-17で惜しくも敗退。三洋電機はこれで日本選手権三連覇なり。それにしても秩父宮ラグビー場のグラウンドの状態の悪いこと。使用過多で芝がはげている上に直前までの雨でグラウンドはぬかるみ、選手たちは泥まみれであった。これで来シーズンまでラグビーとはしばしの別れか。

道誉さくら

Dsc06665  3月7日(日)雨。冷たい雨の中、湖北へ歴史散歩に行ってきた。長浜~須賀谷(小谷城がある)と廻り、最後に米原市清瀧にある佐々木京極氏の菩提寺・徳源院へ寄ってきた。鎌倉時代、近江の守護職だった佐々木氏は、六角、京極、高島、大原氏と4家に分かれたが、本家の六角氏は織田信長に滅ぼされ、明治維新まで続いたのは京極氏のみ。(最後の当主は四国丸亀藩主)。

寺内にある京極家墓所には初代氏信(1295年没)からの墓・宝筐印塔が並んでいて、それは壮観。この墓地を整備したのは江戸時代の当主22代高豊とのこと。この人が境内に三重塔を建て、付近に散在していた歴代当主の墓を集めて現在の形にしたそうだ。高さが16メートル弱、小ぶりながら気品のあるこけら葺きの三重塔のその前に、見上げるほどのしだれ桜があった。戦国のバサラ大名として知られる佐々木高氏(道誉)お手植えといわれるもので、樹齢400年を超えるという。花の時はさぞやと思われた。佐々木氏といえば浅井に嫁いだお市の方の次女・初を妻にした19代高次が有名だが、実際にこの人のとき京極家は復興したので、京極家の中興の祖とされている。清滝山を背に建つ寺は鄙びた中にも品格が感じられて、何度でも足を運びたいという思いがした。

湖北の春はまだまだ、雪こそなかったが桜の蕾は固く、山々の木々の芽吹きが待たれたことだ。しかし里ではそこかしこに梅やマンサクの花が咲いて、春近しと思われた。

 長浜はじめ須賀谷、米原など湖北の町々には、「浅井家三姉妹(茶々・初・江)」の旗が立ち、三女の江を主人公とした来年のNHKドラマに便乗した観光商戦がもう始まっていた。

 写真は徳源院の樹齢400年という道誉サクラ。花のときにまた訪れたいものだ。