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2012年5月16日 (水)

洲之内コレクション

P5160002  5月16日。承前。東北の旅補遺②。東北の旅補遺として宮城県美術館のことを書きながら、そこで見た洲之内コレクションのことを書き忘れていた。洲之内徹(1913-1987)の没後、その所有する美術作品が宮城県美術館に収められたのは1988年のことだった。その後、何度かコレクション展が開かれたのは知っていたが、東北は遠いという概念があって、(なにしろ西九州の生まれなので、箱根より向こうは遠国なのです)、観る機会がなかった。もちろん洲之内徹が残したエッセイ集は手元にあり、それらに掲載された写真でコレクションのおおよそは知っていたのだが。このたび宮城県美術館を訪ねて、常設展の会場でコレクションの一部に会うことができた。また館内のミュージアP5160003 ムショップで、1994年に開催されたときのコレクション展のカタログを手に入れることもできた。このたびの東北旅行の一番のお土産である。

 昨日、地下鉄の駅を出たところ、目の前に募金箱を抱えた高校生たちがずらりと並んでいた。「東日本大震災の義援金をお願いします」と一斉に声を上げている。しかし雨が降っているせいか、みな足早に過ぎて、募金箱に近づく人はあまりいないようだった。背後を歩く二人組からは、こんな声も聞こえた。「もうあちこちでずいぶん義捐金に応じたよ。あのお金はどこへ行ったのかしら」。「赤十字でも大半は人件費などの経費に消えるというし」「震災復興の宝くじも、1100億円の売り上げがあったそうだけど、被災地にいくのはたった150億円だというよ。配当や経費を差し引いても少なすぎる」。というようなことを早口の京都弁で話しておられました。「義捐金は渡したい相手に直接手渡すわ」とのことですが、同感。そのために私は東北へ行ってきました。そうそう、仙台の牛たん料理屋で会った広島からのご夫婦曰く、「東北応援に来ました。東北でたくさんお金を使って、それがわしらの東北応援ですわ」。ただお金を渡すのではなく、経済復興のために東北産のものをどんどん買う、みんなが東北へ出かけてお金を使う、そんなことのほうが現地の人には有り難いのではないでしょうか? というわけで私も当分お酒は東北のものにしています。いま手元にあるのは「一の蔵」と「浦霞」です。

 写真下は常設展示されていた長谷川潾二郎の「猫」。ここでこの作品に会えるとは思ってもいなかったので、ちょっとした衝撃でした。もちろん嬉しい衝撃です。うっとりと(この猫のように)長いことこの絵の前に佇んできました。潾二郎は長谷川四郎の兄です。

沖縄復帰40年

Photo  5月16日(水)晴れ。昨日は「5・15事件」の日、そして沖縄が本土に復帰して40年の日だった。長いこと観光目的で沖縄へ行くことができなかった。(東京に住む古い友人は、同じ理由で長いこと長崎を訪れることができなかったという)。初めて沖縄へ行ったのは23年前のことで、たちまち沖縄病にかかった。以来、何度足を運んだことだろう。この10年余の沖縄、とくに那覇の町では開発が進み、以前のような独特の風景が消えてしまっている。公設市場は昔のままだが、(それでも以前のような猥雑さはない)中心街の一歩裏側に大きな亀甲墓があったりする光景は見られなくなった。どこも小奇麗になって、町の景観は本土と変わらぬものになりつつある。首里に住む友人はいまだに手紙に「P5160001 琉球国首里市〇〇」と書いてくる変り者だが、その手紙を見るたびに、沖縄は本土に復帰せず独立すればよかったのに・・・などと思ってしまう。観光と老人医療で立国できるのではないか。老後をアジアでと、マレーシアなどに移住している日本のシニア、リタイア組を、沖縄に呼び込むことができれば、と思うのだけれど。実際、いま毎年2万人近くの人が沖縄に移り住んでいるという。(移住者はちゃんと働いて、税金を納めてほしいな)。若いころ、援農の名目で沖縄のサトウキビ農家に居候していた友人は、「沖縄は本土並みになる必要はないのだ」とよく言っていた。「貧乏でもいいじゃないか。自給自足できて、人間はやさしい。これで十分」だと。

 首里城公園には太平洋戦争末期、日本軍首里城総司令部が置かれて、その濠が残っている。濠の入り口には鉄格子がはめられているが、その周りにはガジュマルが生い茂り、それと知らなければ気がつかないだろう。沖縄戦では島民の4人に1人が犠牲となった。これほどの犠牲を強いていながら、復帰40年たった今もまだ・・・と思わずにはいられない。たしかに沖縄振興のため、国はこの40年間に10兆円を超す資金を投じてきた。罪滅ぼし・・・というわけで、いまなお補助金攻勢が続く。だが、大震災からの復興と同じで、依存体質は真の自立を妨げるのではないか。 

 沖縄に行くたびに、ニライカナイの国にきた、という思いがする。常世の国に来たと。町なかにたくさんのお墓があるのは京都とよく似ている。死者たちと親しい街、死者と共に生きる町、メメント・モリの町でもある。

 写真上は首里城・守礼之門。下は愛読書の一つ、戸井昌造『沖縄絵本』(平凡社)。

2012年5月14日 (月)

4千万本の木を植えた男が残す言葉

2012_0514_094834p5140053  5月14日(月)晴れ。●宮脇昭『4千万本の木を植えた男が残す言葉』(河出書房新社)を読む。その土地にあった木(潜在自然植生)を植えて、土地本来の森を再生する運動を提唱・実行している生態学者の本。2005年のNHKTV「知るを楽しむ」という番組で、「日本一多くの木を植えた男」のタイトルでこの人が話すのを聞いた。自然の秩序を人工的に壊すと、人間は自然からしっぺ返しを受ける、経済優先で単一種の植林を進めてきたが、安い外材が入ってくると国産の木は見捨てられた。山は放任状態となって手入れがされないために大雨が続くと根が浅い杉や桧は倒れて山は荒廃し、子孫を残すために必死になって花粉をまく・・・いのちの源である森を復活させるために、その土地本来の植生を植えて、いのちを守る森づくりをしよう・・・。そのときの話では、実際にどんぐりから育てた苗を植えて各地の工場や学校などに森を育てているということだった。私も小さな庭を持ったとき、近くの神社で拾ったドングリを庭に播いたことがある。ドングリはみんな芽を出して、すぐに幼いカシの木になった。庭の一部が雑木林のようになったため、大半は抜いてしまったが、種から育てた木を眺めるのは楽しかった。他にも柿や枇杷、細い杖のような苗から育てたイチジクなどもあった。猫額庭と名付けた庭だったが、四季おりおりに花が咲き、野鳥が遊びにきて、センリョウ、マンリョウ、ピラカンサスなどの種を落としていったりした。我が家にあってほしいものは「鳥が来る木」だが、マンション住まいでは望めない。まあ、草むしりの重労働から解放されたのだから、それくらいは我慢しなければ。人は何もかも手に入れるわけにはいかないのだもの。というわけで、町歩きの際には、周りの木々を眺めることになる。今日も蛸薬師通りを歩いていると、ある家の玄関にエゴノキの花が咲いているのを見つけてパチリ。先日訪ねた九州唐津の末廬館(歴史資料館)の庭にもたくさんのエゴの木があったが、縄文時代にもこの木はあったのかしらん。さて、宮脇昭さんが60年前から提唱してきた鎮守の森(自然森)復活のすすめ、が近年ようやく林野庁にも浸透し、国有林の森づくりでブナやナラ、シイ、タブ、カシなどの自然木が植えられるようになったという。また、氏が提唱する東日本大震災のがれきの上に樹木を植えて「森の防波堤」を造ろうという運動が、先日岩手県で実施されたという。幅1メートルの土地があれば森はできるという。育てば森は防災林にもなり、憩いの場にもなる。国の内外で植樹活動を続けている氏はもう84歳、エコロジカルな森の再生運動論に南方熊楠を連想した。連想したついでに書いておこうかしら。宮脇昭さんのお顔はラグビー日本代表チームのヘッドコーチ、エディ・ジョーンズさんによく似ている。エディさんは春までサントリーチームの監督で全日本を制覇した人である。地味だけど真摯で我慢強そうなところ、二人に共通するのではと思ったことだ。

 写真は町で見かけたエゴノキの花。

2012年5月12日 (土)

草木鳥獣・人

2012_0508_091013p5080011  5月12日(土)曇り。肌寒い朝。衣替えをしなければと思いながらまだ冬物を片づけることができない。夏のような日が続いたと思ったら、昨日は厚手の上着が欲しくなるような天候だった。

 8日の午前中、例会で岡崎行。地下鉄蹴上駅を出たら、「浄水場のつつじ一般公開」と看板があったので、すぐ隣りにある蹴上浄水場に入ってみる。今年はこの浄水場が創設100周年を迎えるそうだ。記念の年というので、例年ならゴールデンウイーク中だけの一般公開が延長されていた。毎年花の時期に遠くから眺めるだけだったが、今年は初めて中に入って見ることができた。まだ満開ではないが、よく手入れされていてなかなか美しい。隣はウエスティン都ホテル京都2012_0503_110509p5030089 で、一月ほど前はこの山一帯に桜が咲いていた。岡崎の疎水べりは、並木のハナミズキも終わり、いま動物園の石垣に白いナニワイバラの花が満開。この花は佐賀有田の陶器市でも見た。一重の大きな花。薄紫の桐の花も町のそこかしこに。真っ白な満天星ツツジ、黄金色のヤマブキ、赤いベニバナトチノキ、白いオオデマリ、年に一度しか会えない花たちに挨拶しながら過ぎる。

 帰りて久しぶりに飯島衛『草木鳥獣・人』(みすず書房)を読む。30年来、折にふれ開いてきた本。これは生物学者による蓼科での自然観察記・山荘日記。西九州の、町育ちの私には馴染みのない植物がたくさん出てきて、初めて読んだときは、植物図鑑をかたわらに置いて2012_0502_113433p5020048 ページを繰ったものだ。春や夏を八ケ岳や大山などの高原で過ごすようになって、この本に登場する草木と親しくなった。最も九州でも雲仙や湯布院、九重などに住む友人たちからは、その無知ぶりを笑われたりもしたのだが。いまはわざわざ高原にいかなくても、京都の町を歩いているだけで、さまざまな山野草に会うことができる。わが洛中日記は花日記でもあります。

 写真上は蹴上浄水場のつつじ。中は九州自動車道金立SAのキショウブ。下は有田陶器市で見たナニワイバラ。

2012年5月11日 (金)

日出~湯布院

2012_0503_140009p5030092  5月3日(木)晴れ。博多から迎えに来てくれた子どもたちの車で、唐津から大分へ移動す。九州自動車道は鳥栖を中心に大渋滞中。われわれは九州横断コースを選んだので、スムーズに走行。この日の宿は日出のホテル。別府~大分が向こうに見える。向かいの小高い山が猿で有名な高崎山。別府大分毎日マラソンはこの付近を走る。子どもたちと高崎山のふもとにある海たまご(水族館)へ行く。5日までは子どもの日なり。

 5日(土)晴れ。朝、ゆっくりホテルを出て、新緑が美しい高原道路を走る。湯布院の町を見下ろす狭霧台展望台で一休み。湯布院の町にはたくさんの思い出がある。玉の湯のMさん、亀の井のNさん、湯布院空想の森美術館のT2012_0505_053415p5050189 さん、みなさんお元気だろうか。Nさんはもう娘さんに経営を渡されたと聞いたが。九州を離れてからは、もう無沙汰ばかり。一昨年、湯布院を訪ねたが、良くも悪くも湯布院ブランドは健在だなあ、と思った。観光客相手の派手な土産物が並ぶ賑やかな通りもあれば、緑に包まれた静かな宿もちゃんとあって、まあうまく棲み分けているのかなあと。しかし、金鱗湖界隈のにぎにぎしさには、ちょっと・・・。

 旅から戻ると、いつものことながら溜まった仕事が待っている。山のような郵便物、留守番電話、メール、宅配便、あとから追いかけて届く洗濯物。(チェックアウトのとき、ホテルから荷物を送るのです)。やれやれ、このたびは風邪をひいてしまったので、息も絶え絶え、仕事を2012_0505_103209p5050207 片づけている。(風邪薬を服用しているのにビールを飲んだりして、これでは治るものも治りませんね)

 駆け足の備忘録、どうもとりとめもないものになってしまったが、これも病のため、頭が思考停止状態になっているためなり。早く風邪を治して、平常に戻りたい。

 写真上は日出の海辺にあるホテルの部屋から。チャペルで結婚式があってました。写真中は4日の朝の日の出。下は狭霧台から見る湯布院の町。懐かしい誰彼の顔を思い浮かべました。

陶器市

2012_0502_130146p5020066  5月11日(金)曇り。旅から戻って風邪をひき、体調がすぐれないまま、ぐずぐずと過ごしている。空港から乗ったリムジンバスの冷房が効きすぎていたのが堪えたらしい。咽喉、鼻、頭、みんなグズグズ。遊び疲れだというので誰も同情してくれない。溜まった仕事は容赦ないし、まさに「楽あれば苦あり」。このブログも早くリアルタイムに戻したいので、駆け足で備忘録を。

 5月2日(水)曇り、ときどき雨。ホテルに届けてもらったレンタカーで佐賀のお寺へ行く。つれあいの両親たちのお墓詣り。父親は1994年6月に、母親は1998年5月に亡くなった。私の両親もすでにないので、私たちはどちらも「みな2012_0502_125216p5020060 し子(老人)」なり。若いころはつれあいの先祖たちが眠るお墓に入るのは抵抗があったが、いまはどうでもよくなった。京都に自分たちのお墓をつくろうか、と言っていたこともあったが、死んだ後のことなど、もうどうでもいい。思い出してくれる者がいる間だけは、偲ぶよすがとなるものがあると便利だろうが、それもいつまでのことか。何も残さず消えていくのがいちばんという気分。何事にもこだわりがなくなるというのも、年をとったおかげだろう。お寺を出たあと、有田の陶器市へ行く。20数年ぶりに訪ねた有田の町は新しい店ができてはいたが、基本的にはあまり変わってはいなかった。だが昔ながらの日用品を出す店が減って、新しい窯元や陶芸家たちの店が増えたように感じられ 2012_0502_144156p5020080 た。昔、客と掛け合い漫才のようなやりとりをしていた露店商のおじさんが健在だったのにはびっくり。手に取るだけで買わない客に、「わし、ちゃわんやさん。あんた買わんやさん」などと言ってたっけ。京都清水坂の陶器市にも店を出すというので、この夏の再会が楽しみ。赤絵町の建物は昔のまま。バス停の案内板がやきものというのも嬉しい。伊万里焼の陶祖・李参平を祀る陶山神社の近くには、その名がついた李参平窯の店もあった。覗くと、初期伊万里を彷彿とさせる作品が並んでいた。

 有田名物の「ごどうふ」をいただく。にがりではなく葛で固めた豆腐で、プリンのような舌触り。二重底になったビア陶器(魔法瓶と同じで、器の外に水滴がつかない)や限定品という酒器などを購入。陶器のネジを開発したという窯元は、京都の有名な七味店に納品しているとのこと。器だけでなく、いろんな商品開発に挑戦しているのだなあ、と感心させられた。この日はウイークデイで人出は予想したほどではなかったが、おかげでゆっくり見て回ることができた。有田のあと、伊万里の大川内山へ足を延ばす。ここは鍋島藩の藩窯があったところで、以前は秘境という感じがあったが、いまはすっかり開かれて、観光客も多いようだ。有田、伊万里と廻って、肥前のやきものはいいなあと再認識す。私にとって焼き物といえば未だに磁器は肥前、土ものは唐津、なのです。

 写真上は有田の陶器市で再会した露店商のおじさん。中は有田陶磁資料館のトンバイ塀。下は伊万里大川内山。

2012年5月10日 (木)

東北の旅ー補遺

2012_0426_161531p4260046 東北の旅で書き忘れたことがあった。4月26日、芭蕉の足取りを辿って陸奥国分寺跡の薬師堂を訪ねたあと、青葉城と宮城県立美術館へも足を延ばした。県立美術館には宮城県出身の彫刻家佐藤忠良の記念館がある。美術館の庭に色とりどりの鯉のぼり(のようなもの)が展示されていた。造形作家の新宮普が展開する「元気のぼり」だという。兵庫県在住の造形作家は阪神大震災のあと、こいのぼりの形をした大きな紙に絵やメッセージを自由に描くプロジェクトを展開してきた。東北大震災のあとも兵庫や東北の子どもたちに「元気のぼり」をつくってもらい、その作品が美術館に展示されていたのだ。のぼりには子どもたちの手で、がんばろう、みんないっしょ、元気、ありがとう、などと書かれている。これが復興のシンボルになればと2012_0426_161239p4260045 いうのが関係者たちの願いだという。仙台の空に舞う元気のぼりには東北の情念というか、パワーが感じられた。佐藤忠良記念館は1990年の設立。佐藤忠良(1912-2011)の作品は琵琶湖の佐川美術館にもコレクションがあるが、生地で見る作品はまた格別の味わいがあった。なにより嬉しかったのは、記念館の中庭に舟越保武(1912-2002)の「原の城」が立っていたことで、彫刻家二人の魂の呼び交す声が聴こえてくるような気がした。

 青葉城のことも書いておこうかしら。26日は小雨が降っていたので城址では伊達正宗像を見ただけで美術館へと廻った。28日、名取へ行く前にあらためて青葉城へ上り、仙台の町の2012_0428_081105p4280228 眺望を楽しんできた。早朝から観光客が来ていたが、「なんだ、お城はないのか」という声あり。はるばる来たのに残念でしたね。城址には資料館やお土産店、護国神社などがあり、神社ではこの日結婚式があるとかで、巫女さんたちが鳥居の下に赤い毛氈を敷いていた。

 最近は歴史愛好家の女性が増えているそうで(歴女とよぶそうだ)、この日もそれらしき若い女性たちが熱心に展示資料を見ていた。私は資料館の隣にあるお土産店で、ずんだ餅をいただき、笹かまぼこを買いました。

 写真上は宮城県立美術館の庭に舞う「元気のぼり」。中は佐藤忠良記念館。下は青葉城址に立つ正宗像。  

唐津城の藤

2012_0501_153655p5010019  東北のあと、連休を九州で過ごしてきました。こちらも忘れないうちに少しだけ記録を。

5月1日(火)曇りのち雨。正午ごろ福岡空港に到着。空港の食堂で豚骨スープのラーメンをいただく。何年ぶりの味だろう。日頃、ラーメンを食べることなど滅多にない。旅先ならではの体験なり。空港から地下鉄(姪浜からJR筑肥線となる)で唐津へ。ホテルに入ったあと、休みたいというつれあいを残して一人で町を散策す。唐津城はいま藤の花が満開で、辺りいったいに甘い香りが漂っている。藤棚の近くに斎藤茂吉の歌碑あり。「松浦河 月あかくして 人の世の かなしみさへも 隠さふべしや」。傍らの説明版によると、「大正9年(1920)8月20日、喀血後の療養を兼ねて茂2012_0501_154617p5010023 吉は長崎から唐津に来た。この地で24首の歌をのこし、9月11日に佐賀の古湯に向けて発った」とある。歌碑が立つ場所からの眺めは素晴らしい。松浦河と虹の松原、その向こうに台形の鏡山が見える。万葉集に詠われた領巾(ひれ)振り山。麓にある鏡神社は『源氏物語』にも登場する。

 城を出て、城下町へ。辰野金吾が監修し、その弟子田中実の設計によって1912年に建造されたレンガ造りの旧唐津銀行は、修復工事を終えて、レストランなどが入る観光スポットとなっていた。辰野金吾は唐津出身で、代表作に東京駅や日本銀行、大阪中央公会堂などがある。(フランス文学者辰野隆はその息子)。唐津では銀行誕生100周年というので、いろんな行事が開催されていた。だが、町に人影は少な2012_0501_162057p5010030 い。唐津くんちの曳山を出す町内が集まる中心街だというのに、アーケードの中はまさにシャッター通りで寂しい限り。とにかくどこも地方都市(車が入らない商店街)の寂れようが著しい。商店街のかたすみにある恵比寿像を眺め、唐津焼の店を覗いて歩く。駅でタクシーをつかまえてホテルへ戻る。夜、大きな生簀がある食事処で玄界灘の魚介類をいただく。イカもアジも直前まで目の前を泳いでいたもの、まだ動いている透明の身を「勘弁してね」「成仏してね」と言いながら口に運ぶ。京都ではこんなに新鮮なイカは食べられない。佐賀には伊万里牛という絶品もあるのだが、この日は海の幸を堪能した。ごちそうさまでした。

 写真上は唐津城の藤の花。中は茂吉の歌碑がある城内からの眺め。下は唐津の中心街。

蔵王エコーライン

2012_0429_092031p4290411  4月29日(日)晴れ。東北の旅の最終日、ようやく日本晴れとなった。前日蔵王のホテルに泊まり、29日の朝早く開通したばかりのエコーラインの雪道を走る。エコーラインは宮城と山形の県境に連なる蔵王連峰を横断する山岳道路。以前、やはり5月の連休に立山室堂の雪道を走ったことがあるが、蔵王の雪の壁も素晴らしい。五色沼ともよばれる火山湖御釜まで上っていったが、湖はまだ凍っていて、エメラルドグリーンの水は見えず。しかし1600メートルからの眺めは素晴らしく、雪を頂いた山々が遠くに連なって(最初たなびく雲かと思った)初めて東北に来たという実感がわいた。近くにあるスキー場のゲレンデに水仙の花が咲いているというので帰り道に立ち寄ったが、花はまだ蕾、青々とした葉が一面広がってい2012_0429_085802p4290394 るのみ。今年は桜も水仙も開花が遅れていて、蔵王の桜もまだ三分咲きだった。おかげで今年は博多、京都、東北とほぼ一月余、各地の桜を楽しむことができた。

 蔵王のホテルでも震災の被害があり、上層階の部屋の窓が割れたり、壁にひびがはいったりしたそうだ。「それは揺れました。体験したことがないほどの、ものすごい揺れでした」とラウンジでコーヒーをサービスしてくれた従業員が話してくれた。今回見舞うことができた友人や知人の中に、身内を亡くした人がいなかったのは不幸中の幸いで、それぞれ仕事を再開し、なんとか暮らしているのを確認できて、少しは安心できた。だが、東北の復興となると話は別だ。個人の努力で、(みんな新たな借金をし2012_0429_110003p4290430 て)家を再建し、仕事を再開しているが、将来の見通しとなると不安だらけというのが本音ではないか。義捐金はどこにいったのかしら。仙台の町は賑わっていたけれど、中心部を離れるとまだまだ傷跡がそのままという感じがした。現地の人たちからいろんな話を聴いて、(理不尽に思えることもあり)義憤に駆られたりもした。

 東北は未知の地だったが、昨秋の福島に続いて今回宮城を訪ねることができて良かった。「奥の細道」は駆け足だったので、多賀城など訊ねていないところもまだあり、再度挑戦したい。芭蕉ではないが、「能因法師、西行上人の跪(きびす)の痛みも思ひ知らん」である。

 赤坂憲雄の東北学を再度読み返してみよう。同じ鄙でも九州と東北はずいぶん印象が異なる。そうそう車で走っているとき、仙台文学館の看板を見かけたのだが、時間がなくて寄ることができなかった。かつて井上ひさしが館長を務めていたはず。これも次回に。山でフキノトウなどの山菜をいろいろ見かけたが、友人が「今年は山菜採りは中止、原発事故のせいで」というので気の毒でならなかった。

 写真上は蔵王エコーラインの雪道。中は火山湖御釜。下は蔵王遠刈田(とおがった)温泉の川にかかる鯉のぼり。山は雪、里は桜。東北の春はなにもかもがいちどきに来る、桜、梅、桃、梨、林檎、木々の花がいっせいに咲いて、夢のようであった。(三春と言う地名の由来は、春になると桜、桃、梅がいちどに咲くことからつけられたそうですね)

白石城の桜

2012_0428_103040p4280277   4月28日。承前。名取から白石へ、白石川に沿って国道4号線を走る。白石川の堤には満開の桜並木が続いている。途中、大河原という町の河川敷に車を停めて、「一目千本桜まつり」の会場へ寄る。福井の足羽川とよく似た眺めなり。連休初日とあって花見客多し。花は盛りを過ぎたところで、少しの風にもはらはらと舞い散り、足元はピンクの絨毯を敷き詰めたよう。白石で名物の温麺(うーめん)を食べるつもりだったが、つい祭の露店で買い食いをしてしまう。桜のはなびらが散りかかったタコヤキ。東北の桜を満喫したあと白石城へ。ここは豊臣秀吉の時代は蒲生氏が城主だったところで、上杉領となったのち、再び伊達領となり、慶長7年(1602)伊達正宗の家臣片倉小十郎の居城となった。徳川時代には一国一城令が敷かれたが、仙台藩は仙台2012_0428_131154p4280307_2城と白石城の二城が許され、明治維新まで片倉氏の居城となったというから、相当に重要な城(位置)だったと思われる。私は戦国時代に関しては蒙昧なので、片倉小十郎に関する知識はゼロに等しい。以下はここで仕入れた知識。城は1995年に復元されたものだが、その動機となったのはNHKの大河ドラマだったらしい。このドラマで、伊達正宗を支える片倉小十郎(西郷輝彦が演じたそうです)が見直され、町のシンボル再生ということになったらしい。伊達正宗にはエピソードが数多あるが、中でも有名なのが秀吉の小田原征伐のさい、真っ白の死装束で遅参したというもの。伊達内部にある反豊臣の声を抑えて、小田原参向を勧めたのが片倉小十郎だった。よき守役であり、先を見る目を持った軍師でもあったようだ。城跡は地元の人たちのよき憩いの場となっていて、この日も花見客が大勢桜の下で寛いでいた。城は小ぶりながらその復元に際しては発掘調査を重ね、史実に忠実に木造による復元がなされている。しかし震災で壁が剥げ落ち、城は連休後、修復工事のためしばらく閉館となるそうだ。維新後、片倉家の旧家臣たちはすべてを失い、農民となるか士族として生きるか選ばなければならなかった。士族として生きる道を選んだ人たちは開拓者となって北海道へ渡った。そのときの移民船が咸臨丸。彼らの苦難の日々はいまも語り継がれ、札幌市白石区や登別に名を残している。 維新は東北の藩士たちにはずいぶん惨いものであったようだ。

 写真上は白石川の桜。下は白石城。