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2017年3月22日 (水)

引っ越しました

Img_2981 3月22日(水)晴れ。eonetのブログサービスが今月いっぱいで終わるので、わが備忘録「朱雀の洛中日記」もこれで完了と思っていたのだが、別のところに引っ越して、ぼちぼち続けることにした。新しい引っ越し先は、livedoorのブログで、タイトルはこれまで通り『朱雀の洛中日記』です。URLは下記の通りですので、よかったら引っ越し先を覗いてみてください。

 http://suzaku62.blog.jp/

eonetのこのブログは2006年1月17日に始めたから、もう11年になる。滅多に読み返すことはないが、引っ越しを機会に少し振り返ってみようかしら。ではみなさま、これからもよろしくお願いします。

 写真の花はタイワンツバキ(ゴードニア)。葉が普通の椿に比べると細長い楕円形なので、花がないときは椿と気がつかないかも。先だって三国ヶ丘へ出かけたとき、南海電車の堺東駅そばで見かけました。白い花といえば、いま、京都市中京区千本通三条の仏教大学前にミヤマガンショウ(深山含笑)が真っ白に咲いています。ハクモクレンやコブシよりも早い開花です。

2017年3月21日 (火)

旅のお供に

Img_3185 3月20日(月)晴れ。彼岸の中日。京都から博多まで、新幹線の「のぞみ」で約3時間。本が一冊読めるくらいの時間で、今回の旅のお供は丸谷才一『双六で東海道』(文春文庫)。新幹線の中だとうとうとしたり、窓の外の景色を見たり、車内販売のコーヒーを買ったりと落ち着かないので、どこからでも読めるエッセイがいい。それには丸谷才一の本がぴったり。あるいは川本三郎、あるいは奥本大三郎、あるいは森浩一・・・と書いて気がついた。みんな名前に数字がつく人ばかり。さてこの『双六で東海道』に「森浩一さんの研究を推薦する」という一項あり。森浩一さんの研究はイグ・ノーベル賞の資格あり、という趣旨の文章で、「森さんは日本の代表的な考古学者ですね。文章がいいのでわたしは敬愛してゐます。それに食べ物に対する関心が強いことも私の趣味に合ふ」と言い、続けて、「数多い著書のなかで、とりわけわたしのお気に入りは『食の体験文化史』(中央公論社)。食物を入口にして考古学と歴史を語る」とある。『双六と東海道』はもう何度も読んでいるのだが、このくだりに出会うたびに嬉しくなる。
 『食の体験文化史』は考古学者が毎日食べたものを記録して、一年ごとに何を何回食べたか統計をとったものである。ちなみに1992年の統計では、主食の飯(めし)597回、寿司93回、カユ・オジヤ70回、餅59回、カス汁28回、オコワ14回、などとあり、野菜は大根297回、キュウリ248回、マツタケ5回、など。魚のフグは20回というから森教授はグルメなのだ。川魚では、京都の人らしく、アユ25回、ウナギ23回。モロコ15回、ゴリ6回、とある。食べ物にまつわる体験談や交遊録、地方史、文化史など、一冊の本の中にたくさんの愉しみが詰まっている。もし私が食の体験記録を書くとしたら、今年の項に、「ツキノワグマ」「イノシシ」が加わる。森先生の本にはイノシシはよく出てくるが、さすがにクマは見当たらない。召しあがってほしかった! 

2017年3月20日 (月)

元寇防塁

Img_3168 3月17日(金)晴れ。午後から一泊二日の予定で博多行。土曜日にお祝い事で人に会う予定があるが、この日は夜までフリー。といっても博多に住むDと夕食の約束があるので、散歩の時間は限られている。ホテルに荷物を置いて、地下鉄で西新へ向かう。歴史博物館と中央図書館を覗くつもりで出かけたのだが、駅から1キロの距離を歩く余力がない。途中、「史跡元寇防塁入口」の大きな石の標柱を見かけたので、博物館行を断念、防塁跡へ向かう。1274年の文永の役で元に襲われた日本(鎌倉幕府)は、博多湾の海岸沿いに20キロに及ぶ石の防塁を築いた。1281年、再び元が襲来してきたとき、この防塁が役立ったらしい(弘

Img_3166安の役)。国家防衛のため延々と壁を築くというアイディアは秦始皇帝の万里の長城が有名だが、最近も国境に壁を築く政治家がいるのだから、なんともはや。さて、大陸からの兵が日本に攻め込んできたのは元寇が初めてではない。平安時代に刀伊(女真人)が対馬・壱岐に襲来、さらに糸島、能古島に上陸して殺戮を行い、人々を拉致した、という事件があった。「刀伊の入冠」(1019年)で、当時大宰権帥だった藤原隆家は在地の豪族たちを指揮して刀伊と戦い、被害を最小限に食い止めたという。隆家はせっせと都に我が国の危機を知らせるのだが、都の貴族たちの反応は鈍かった。その顛末は藤原実資の日記『小右記』に詳し

Img_3177い。昔も今も、都から遠い土地での出来事に中央政府の反応は鈍い。フクシマ然り、沖縄然り。などととりとめもないことを思いつつ周辺を散策す。近くの交差点は「防塁」、地名にもその名があった。防塁は博多湾沿いに何か所も残っていて、以前箱崎のものを見たことがあるが、今津や今宿のは未見。次の機会にぜひ。

 大名にある魚料理屋で待ち合わせて、Dと夕食。大きな生簀のある店で、この日も満員の客。いろんな魚を食べたいのでまずは刺身の盛り合わせをいただく。それからイカとオコゼのの活づくり。仲居さんが勧め上手で、「この時期博多に来なったら、食べならんば」と言うので、博多の早春の味、「シロウオの踊り食い」をいただく。口の中でぴちぴちはねるのを、いやあ残酷、といいながら飲み込む。季節を味わうのも勇気が要ります。

 写真上は西南大学の傍にある元寇防塁。中はその説明版「元寇防塁位置図」。下はこの日食べた博多の早春の味、室見川で獲れた「白魚」。メダカのように元気に泳ぎ回るこの魚を酢醤油で一気にすすって・・・ごちそうさまでした。

2017年3月15日 (水)

利長と家持

Img_3062 3月9日承前。高岡は奈良・飛鳥と並ぶ万葉の里で、「万葉歴史館」がある。「万葉集」」の編纂者とされる大伴家持が、天平18年(746)から5年間、越中守としてこの地に在任していたことによる。前田利長と並んで、家持は高岡のシンボル的存在で、駅前に立派な銅像があった。また今年は家持生誕1300年というので、いろんな行事が行われるらしい。万葉歴史館へは行けなかったが、空襲に遭わなかったおかげで残った古い町並みを楽しんで来た。東京駅を設計した辰野金吾が造った赤煉瓦の銀行はいまも現役で、蔵造りの家が並ぶ通りには福島県喜多方の町並みを思わせるものがあった。バスで乗り合わせたおばあさんは「高岡には何にもありゃあせん。空

Img_3095襲に遭わんかったから古いもんは残っとるけど。でも楽しんでいって」。
 日本三大仏の一つといわれる高岡大仏を車窓から見る。高岡鋳物発祥の地、金屋町は人影もなく、千本格子の家が整然と並んでいる。石畳の通りを歩きながら、紙のように折り曲げられる金物の器を作っているところを探したが、とうとう辿り着く能わず。次回に思いを残してあいの風とやま鉄道に乗り、金沢へ戻る。予定を早めて一時間前のサンダーバードで帰洛。列車が雪の湖西へ差し掛かるとき、饗庭孝男の『故郷の廃家』(新潮社 2005年)を思い出した。琵琶湖の西岸、今津から安曇川の中間辺りに饗庭というところがある。文藝評論家の饗庭孝男の故郷で、『故郷の廃家』は彼の自伝。尤も饗庭孝男は本書のあとがきで、「もし”私小説”というジャンルがこの世にあるならば、”私歴史”というジャンルもあっていい筈である。」といい、つつましい人生を生きた死者たちの鎮魂の歴史をかきとどめたーーと書いている。いまも雪深い土地だが、饗庭孝男の父の時代には、家族の8割が結核で倒れるようなところだったという。近江の歴史と、饗庭家の歴史が重なるように描かれたこの「私歴史書」を私は時々開いて読む。その饗庭孝男氏も先月21日に亡くなられた。享年87歳。

 写真上は高岡駅の観光案内所。下は辰野金吾設計の富山銀行。辰野金吾の弟子たちが造った唐津銀行にも似てますね。

高岡行

Img_3059 3月9日(木)曇り。朝の電車で高岡へ行く。北陸新幹線が開通したあと、金沢から富山へ行くJRはIRいしかわ鉄道とあいの風とやま鉄道という第三セクターになった。これまで京都から富山へ行くにはサンダーバード一本で行けたのに、北陸新幹線が出来てからサンダーバードは金沢止まりとなったため、乗り換えが必要となった。金沢から新幹線に乗り換えてね、ということだろうが、それがいやなら第三セクター鉄道に乗り換えていくしかない。新幹線が来て喜んでばかりはいられない、在来線は切り捨てられるし、高い運賃を払って新幹線を使うしかなくなるのだから。この日私たちはIRいしかわ鉄道で高岡へ行った。片道820円、だ

Img_3057がチケットには大きく「倶利伽羅460円」とある。(小さく820の数字もありました) 途中検札にきた乗務員に尋ねると、倶利伽羅を境にいしかわ鉄道とあいの風とやま鉄道に分かれているとのこと。倶利伽羅は県境なのだそうだ。その倶利伽羅駅に「木曾義仲ゆかりの地」の看板あり。『平家物語』巻7「倶利伽羅落しの事」に書かれた源平合戦の地なのだ。凄惨な戦いの様子は「平家の大勢後ろの倶利伽羅が谷へ、我れ先にとぞ落ち行きけるーーーさばかり深き谷一つを、平家の勢七万余騎でぞ埋めたりける」と書かれている通り。いまは静かな里だが、800年前は、と思いながら倶利伽羅を過ぎる。 

Img_3075高岡は雪、まずは瑞龍寺へ。20年前、この寺が国宝になった時に来たのが最初で、その後何度か訪ねたことがあるが、雪の瑞龍寺は初めて。教師に引率された学生のグループの後ろについて、僧の説明を聞く。若い人向けに分かりやすく、今風の解説をしているのだが、「秀頼は背の高い偉丈夫でした。小猿のような秀吉からどうしてあんな大男がと思うのですが、淀殿しか知らないわけで・・・」などというのはねえ。高岡は加賀前田家二代当主前田利長によって開かれた町で、職人が活躍する町人の町だという。当時、利長は加賀、能登、高岡の三つの国を治めていて、利長亡きあと、その後を継いだ利常が兄の菩提を弔うために建てたのが曹洞宗のこのお寺である。大きな回廊を持ち、見上げるほどの総門や山門、巨大な仏殿、法堂があって、まるで城郭のよう。毎週日曜日には市民参加の座禅会も開かれているという。瑞龍寺を出て駅へ戻り、(これが立派な新駅)市内を循環するコミュニティバスに乗って、観光地巡りをする。バス代は200円。女性運転手が観光案内もしてくれて、実に親切。鋳物の町金屋町~土蔵造りの町並みが残る山町筋などを歩く。

 写真上は石川県と富山県の県境にある「倶利伽羅」駅。中は金沢~高岡までの鉄道切符。下は雪の瑞龍寺。

金沢行

Img_3014 3月8日(水)曇り。前からの約束で、S子と金沢へ行く。これまで北陸はせいぜい加賀止まりだったが、最近は金沢へ出かけることが多くなった。町の規模が歩くのにちょうどよく、また個性的な美術館や文学館が数多あるからだ。なによりこの時期の金沢は何を食べても美味しい。
 京都を朝9時42分発のサンダーバードに乗ると、正午ごろ金沢へ到着する。この日京都は快晴、それが湖西の近江高島を過ぎるころから雪景色となり、敦賀から今庄辺りは吹雪となった。今庄といえば紫式部の越前下向ルートをImg_3039辿ったとき、訪ねたところ。式部は北陸道の木の芽峠を越えているが、私は車でトンネルを通り抜け、式部が参拝したという鹿蒜(かへる)神社へ行った。雪に埋もれた車窓風景を見ながら、誰とも会わなかった静かな(寂れた)鹿蒜の里を思い出す。
 お昼は近江町市場でのどぐろの炙りをいただく。それから県立美術館の中にあるミュゼ・ド・アッシュでケーキとコーヒー。窓の外の雪景色を眺めながら散策ルートを決める。兼六園は梅の花が満開。雪を被った花もあったが、「木の花は濃いも薄きも紅梅」、雪の中でも鮮やかに咲いていました。高山右近の資料を展示しているというギャラリーを訪ねると、休館。犀川の近Img_3017くにある室生犀星記念館へ行くと、ここも休館中。屋根から落ちる雪を避けながら町を歩く。小さな掘割のそばに、「金沢城防衛のため、慶長4年(1599)、二代藩主前田利長が高山右近に命じて掘らせた内堀・・・」という石碑あり。右近は金沢でしっかり仕事をしていたのだ。いつも行く寿司屋は水曜が定休日なのでがっかり。S子のリクエストで、ホテル近くのステーキハウスへ行く。築100年を超えるという古い日本家屋で、一階のカウンター席に女性二人の先客あり。久留米から来た母娘といい、私たちが京都からだというと、「毎月京都へ遊びにいく。行ったら必ず祇園の豆寅へ行く」とのこと。豆寅は舞妓ちゃんの口のサイズに合うよう作られた小さな寿司が名物の店である。なるほどね。ステーキハウスの女将は二組の客のために休みなくしゃべり続け、息子のシェフは無愛想に肉を焼くのみ。女将の長女はかつて宝塚の男役で活躍していたそうで、金沢から宝塚入りさせるためにどんなに苦労したか、という話を聞かされた。しかし娘が宝塚だったおかげで、いろんな客が来てくれて、楽しかった、とも。無愛想な息子と饒舌な女将、女将さんは75歳というのが信じられないほど美しく、息子と夫婦といってもおかしくない若さであった。金沢で肉?と笑われそうだが、この日いただいた能登牛はなかなかのものでしたよ。

 写真上は今庄あたりの雪景色。中は兼六園の梅林。下は近江町市場の加賀野菜。

『丘の火』

Img_3118 3月7日(火)曇り。文遊社から刊行されている『野呂邦暢小説集成』第8巻「丘の火」が出た。この巻には単行本未収録作品の「青葉書房主人」、「廃園にて」、そして遺稿となった「足音」と、野呂の数少ない原爆小説「藁と火」、最後の長編小説「丘の火」が収められている。「丘の火」は1978年から亡くなる直前の1980年4月まで「文學界」に連載されたもので、野呂文学のテーマである「戦争」「男女の愛と別れ」「父親探し」などが描かれている。『諫早菖蒲日記』が歴史をテーマとする代表作とすれば、この「丘の火」は現代小説の代表作といってもいいだろう。自分が住む諫早と思われる地方都市を舞台に、さまざまな人間模様が描かれているのだが、町をとりまく40年の変遷を知ったいま読むと、作家は預言者でもあるんだなという感慨を抱いた。元軍人の戦記に戦場の真実を追求する主人公には、色濃く作者の姿が反映している。終戦時7歳だった作者が創作するリアルな戦記に、戦後生まれが戦争や原爆をいかに書くか、ヒントがあるのではないかと思われたことだ。
 「藁と火」は長崎に原爆が落とされたとき、隣の町にいた少年の数日間を描いたもの。実際に諫早で原爆の光を遠望した野呂少年の記憶の記録である。カメラアイを持った野呂の描写は生々しく、行間から潮の香り、埃の匂い、竈や灰のにおいなどが立ち上るよう。あくまで自分が知っていることを書くという作家の思いが伝わる。
 
 『野呂邦暢小説集成』は、2013年6月に第1巻「棕櫚の葉を風にそよがせよ」が出てから4年、ようやく第8巻まで漕ぎつけた。地味な作家の小説全集刊行を実現した文遊社に拍手を送りたい。

2017年3月 7日 (火)

三国ヶ丘の菜の花忌

Img_2984 3月5日(日)晴れ。堺市三国ヶ丘で開催される「菜の花忌」に参加してきた。三国ヶ丘の「けやき通りまちづくりの会」が主催するもので、詩人の伊東静雄がこの町に住んでいたことから、詩人を偲ぶ会が行われている。伊東静雄は長崎県諫早市の出身で、堺市三国ヶ丘には昭和11年から空襲に遭う20年まで住んでいた。ここにいた間に第2詩集「夏花」と第3詩集「春のいそぎ」を出している。二人の子供にも恵まれ、庄野潤三など教え子たちも頻繁に訪れて、幸せな日々を送ったようだ。故郷諫早では毎年3月の最終日曜日に「菜の花忌」が開催されるが、堺市の三国ヶ丘でも詩人を偲んで温かな会を続けておられることに感動した。

Img_2976まさに「芸術は長く人生は短し」で、いい作品は作者亡きあとも長く生き続けるのだ。この日、「文学の故郷 伊東静雄と野呂邦暢」と題して小さな話をさせてもらったが、親和力に満ちた雰囲気で、拙い話を恥じ入りつつ、寛容な会場のみなさんに感謝するばかりだった。伊東静雄の家は反正天皇陵(百舌鳥耳原北陵)の近くにあったが、70年後のいま、周辺の住宅の様子はすっかり変わってしまっている。詩人が住んでいたころはこの辺りにはまだれんげ畠や菜の花畑が広がっていたのだろう。御陵(みささぎ)を詠んだ詩もいくつかあるが、この日その一つ「春の雪」に曲をつけたものが演奏された。また会員の方々による詩の朗読があり、伊東静雄の詩は朗読に向いていると思ったことだ。伊東静雄の詩碑が大阪には4つある。住吉高校、松虫通ポケットパーク、旧堺燈台下、美原図書館で、それぞれに「曠野の歌」、「百千の」、「燈台の光をみつつ」、「夕映」が刻まれている。閉会後、来てくださった諫早高校同窓会のみなさんと会食、親しく話を交わすことができて嬉しく、楽しかった。会場でお会いしたみなさまに感謝の一日であった。

 写真上は菜の花忌会場。諫早でのそれと同じように、ビール瓶に菜の花を挿したものが並べてありました。下は三国ヶ丘のシンボルともいえる旧天主貯水場。明治43年に造られたもので、看護学校の建設予定地となり取り壊されようとしたのを、住民の保存運動で奇跡的に残ったものだそうです。けやき通り町づくりの会が世話をして、春と秋の2回、一般公開しているとのこと。一度、公開時に訪ねてみたいものです。

やすらかに今はねむり給え

Img_2969 3月3日(金)曇り。林京子さんが亡くなられた。いつかは来るとわかっていたが、不意打ちされたような気持ち。女学生だった1945年8月9日、動員先の三菱兵器工場で被爆。30年後に、そのときの体験を書いた「祭りの場」で芥川賞を受賞した。奇跡的に生き残った者として、真実だけを書くのだという使命感を持ち続けた。彼女は少女時代を父親の赴任先である上海で過ごしている。それは幸福な時代だったようで、そのころのことを書いた「上海」は光に満ちている。高等女学校に入学するため長崎へ帰ってきて、原爆に遭ったのだ。前にも書いたが私は林京子さんと、8月9日の長崎原爆記念日に「祭りの場」の跡を歩いたことがある。林さんが被爆地を訪ねるのはその時が戦後初めてとのことで、(しきりに47年ぶりよ、と言われた)、いまは長崎大学の構内となっている工場跡からスタートして、浦上川沿いに本原の方まで歩いたのだった。8月9日、灼けつくような日差しの下、あのときもう還暦を過ぎておられたが、足取りは確かだった。分かれ道に出会うたびに首を傾げながら、「こっちかしら」とつぶやかれたが、半世紀近い歳月は周囲の風景を変えてしまっていたのだろう。はかなげなほどほっそりとしておられたが、林さんから受ける第一印象は「勁い人」だった。幸福な少女時代を描いた「上海」には、植民地時代をただ懐古するもの・・という意地悪な評もあったが、私は好きな作品である。この「上海」と「青春」は自伝的小説で、前者が少女時代を描いたものだとすれば、後者は昭和25年ごろ、作者が20歳のころのことを書いたもの。私はこの二つの作品をもとに、「林京子の二つの青春」という小文を書いたことがある。生涯1945年8月9日から離れず、そこを自分の原点として書き続けた作家、享年86歳。長い旅もいまや終わり、彼女の本のタイトルではないが、「やすらかに今はねむり給え」。

 写真は林京子さんの本。「青春」と「やすらかに今はねむり給え」。林さんの訃報を聞いて、久しぶりに彼女の本を読んだ。戦後の貧しい時代に精一杯生きる若者たちを描いた「青春」は舞台が大阪と京都の伏見で、疎水沿いの藤森や墨染、深草などの地名が出てくる。私はこの本を京都に引っ越して間もないころに読んだので、とくに親しみを覚えたものだ。不幸な結婚生活を書いた「谷間」や「三界の家」なども惹かれるが、久しぶりに「青春」を読んで涙ぐみそうになった。必死に生きる若者たちの姿がいじらしかったのか、年をとると涙もろくなっていけませんね。

2017年3月 1日 (水)

かほわすれめや雛二対

Img_2930 3月1日(水)曇り。忙しくて忘れそうだったが昨夜遅くに思い出して、内裏雛を出した。一年に一度は狭い箱から出してやらなければ、可哀相だからだ。桃の花を活けて傍に置いたら蕪村の句が浮かんだ。

 「箱を出る かほわすれめや 雛二対」

 今年はいつまでも寒いので、雛祭りという気分にはなかなかなれない。子どものころ、季節の行事はほひと月遅れの旧暦で行われていた。ひな祭りは4月3日で、桜も桃の花も満開だった。節句にかかせないふつ餅(よもぎ餅)の材料となる蓬もたくさん採れた。最近は古記録を読むせいか、普段でも旧暦を使っている。その方が月の満ち欠けも日のままだし、季節感がぴったりする。例えば今日3月1日は旧暦だとまだ2月4日、奈良東大寺二月堂の修二会(お水取り)が始まる日で、これが終わってようやく春になる。春はまた卒業シーズンで、別れの季節でもある。鮎川信夫の「別離の歌」を写しておこう。

 愛を求め
 出発するひと
 あたらしい世界をたずね
 遠く行くひと
 お別れの言葉はいらない
 夜明けの道はまっすぐで長いが
 立止まってはならない
 ぼくらのこころに
 まだ燃えている彗星の
 一千年の別離もさびしくはない
 ひたすら求め たずねて行き
 またいつか めぐりあおう
 春は来らず
 喜びなき代の美しきひと

●池澤夏樹『知の仕事術』(集英社インターナショナル新書)を読む。教養主義が遠ざけられつつあるいま、なんとかして若い世代に本を手にしてもらいたいという思いから作られた本ではないかしらん。この中でいちばん共感したのは「本の手放し方」という項。マンション住まいで容量の問題から、単行本が文庫化されると文庫本を買って親本を処分するという苦しまぎれのことをやってきたのだが、老いによる目の衰えで文庫本を読むのが辛くなった。やれやれ、今後は一冊買ったら一冊処分ということを考えなければならぬ。まあそれも止む無し。もう身辺は身軽に、身軽に。

天文台日記

Img_2964 2月28日(火)晴れ。2月のつごもり。NASAが地球によく似た太陽系外惑星7つを発見したというニュース。39光年先の宇宙にあり、大きさは地球とほぼ同じで、一部には海もある可能性があるという。39光年とはいったいどれほどの距離になるのか、考えただけで目が眩みそうになる。地球があるのだから、同じような星があってもおかしくない、とずっと思ってきたので、7惑星発見のニュースにわくわくした。早速書棚から●石田五郎『天文台日記』『天文屋渡世』を出して再読す。『天文屋渡世』によると、彗星の最古の記録は『日本書紀』巻23、舒明帝6年(634)で、「6年秋8月、長き星南方に見ゆ。時の人彗星といふ」とのこと。また日本人が初めて星空に感動して作った歌は、建礼門院右京大夫の「月をこそ眺めなれしか星の夜の 深きあはれを今宵知りぬる」だそうだ。石田五郎は天文学者だが、能や狂言、クラシック音楽に造詣深い教養人で、教えられるところ多し。天文屋は1日の大半を空を見て過ごすのだから、どこか浮世離れしているのではないかしらん。

 写真は28日午後6時半ごろの京都の西空。小さく映っているのは三日の月と上側に月よりも明るく輝く金星です。

月を食べに

Img_2947 2月26日(日)晴れ。夕方から比良の山中にある山荘に月を食べに行く。京都市街を出て三千院がある大原を過ぎるころから周囲に白いものが見え始めた。市内には見られない残雪で、花折峠にさしかかるころ道路の両側は雪の山となった。その雪の中に野鹿の姿が現われては走り去る。比叡や愛宕の雪は消えたようだが、比良の山はまだ深い雪なのだ。黄昏ていく中、里の家々に灯りがともり、なんとも風情ある光景。車で1時間ほど走ったあと、ようやく葛川の明王院前にある比良山荘へ到着。店の前は深い雪、「今年は尋常ならざる雪でした。30年ぶりの大雪だそうです」と迎えに出た店の女性が言う。車でなければ来ることができない不便な場所なのに、この日

Img_2938も満員の客。ここは季節の料理が有名で、この時期は比良山中で獲れた熊を食べさせてくれるので人気がある。月の輪熊なので、「月」料理なのだ。なかなか洒落た店で、これにすっぽんを併せた「月とすっぽん」という料理もある。この日は猪と熊の鍋をいただいた。怖る怖る卓についたのだが、出てきた料理は洗練されていて、野趣とは全く無縁。ご主人自ら鍋をサービスし、楽しい話に興じて、料理ももてなしも満足させられた。「葛川 雪の里にて 囲む鍋」。Iさん、Fさん、お世話になりました。雪が融けたころ、春を食べにまた行きたいものです。

 写真上は月(熊)肉。全く匂いなどなくあっさりとしたいい味わいでした。下は山荘の前の雪。この奥に千日回峰の折、行者が立ち寄る修験地明王院があります。

 

武相荘

Img_2877 2月17日(金)晴れ。朝9時にホテルを出て、東京都西多摩郡日の出町にある山荘へ向かう。JR武蔵五日市という駅を過ぎて山へ入って行くと、雪が残る山手に建物があった。旧中曽根康弘別荘で、1983年、アメリカのレーガン大統領との会談の場となったもの。江戸末期の茅葺きの民家で部屋の中に囲炉裏があり、二組の夫妻の写真が飾ってある。近くには首脳会談の場となった茶室や、会談のあと建てられ現在は資料館となっている建物などがある。冬期は週末のみの開館だが、この日は特別に案内してもらう。日米首脳会談時、世話をしたという地元の老人が「中学校のグラウンドにヘリコプターが降りて、大きな車を何台も連ねて

Img_2865_2この山荘にやってきたのです。それは大変なことでした」。さもありなむ。山荘近くの山裾に「大口真神」と書かれた札があった。関西ではあまり見かけないお札なので尋ねると、「武蔵御嶽神社の末社の一つ、大口真神社のお札で、御嶽神社の眷属であるオオカミが祀られています」とのこと。兵庫県の養父神社でもオオカミが聖獣として祀られていた。大事な作物を荒らすイノシシやシカを退治するオオカミは崇拝の対象だったのだろう。

 日の出町から町田市にある武相荘へ向かう。ここは白洲次郎・正子夫妻が、1943年から亡くなるまで住んでいた家で、竹林や椿林に

Img_2883囲まれた中に大きな茅葺きの主屋敷やレストラン、バーなどが建っている。門前の一画には次郎が愛用したものと同じアメリカ製のクラシックカーが置いてあり、その傍らで武相荘を紹介するビデオが流れている。門をくぐって邸内へ入り、いちばん見たかった正子の書斎を見学す。馴染み深い書籍の数々、書机の脇の壁に「明恵上人樹座像」が飾ってあるのを見て嬉しくなる。歴史や美術書の中に、中央公論社版の「日本の歴史」、折口信夫全集、南方熊楠全集、フロイス日本史などがあった。小林秀雄の本が多いのは、長い交際もさることながら子ども同士が結婚したという縁もあるからだろう。部屋ごとに二人が愛用した器や骨董品、装束などが展示してあり、二人の暮らしぶりが窺えた。骨董品や書籍などは正子の本の読者には馴染み深いものばかり、品々にまつわるエピソードを思い出しながら見たことだ。白洲正子が1998年の暮れに亡くなったあと、信楽にあるMIHO美術館で白洲正子展があった。そのとき武相荘の部屋が再現されていたのを覚えている。
 庭の石仏のそばに黄色いフクジュソウが咲き、屋敷への道には白梅が満開だった。白洲夫妻が引っ越してきた当時、周りは武蔵野の雑木林と野畠が広がるだけの静かな土地だったそうだが、いまはびっしりと住宅が立ち並び、武相荘は家々に囲まれた貴重な緑の空間になっている。いつまでもこの空間が守られていくといいのだが。

 夕方の新幹線で京都へ戻る。

写真上は白洲邸武相荘。中は日の出町で見かけた大口真神のお札。下は武相荘の正子書斎。

東京の古建築

Img_2799 2月16日(木)晴れ。午前中、湯島の旧岩崎邸へ。屋根の葺き替え工事中とて、洋館は半分工事用足場で覆われていた。ここはもう何度か訪れねたことがあるので、芝生の庭の陽だまりでしばし休憩。近くの保育園児たちが走り回るのを眺める。なんとも贅沢な空間。三菱財閥岩崎家は都内にいくつもの別邸を有していたが、のちに都に寄贈され、六義園、清澄庭園、殿ケ谷戸庭園など憩いの場となっている。次に訪ねた駒込に近い旧古河邸は、英国人建築家ジョサイア・コンドルによるもの。コンドルは明治から大正にかけて、鹿鳴館、ニコライ堂、旧岩崎邸洋館などを手がけ、多くのすぐれた日本人建築家を育てた。旧古河邸の庭は京

Img_2831都の庭師小川治兵衛の手になるもの。ガイドの説明によると、この建物は戦後占領軍に収用され、彼らが退去したあと、30年近く空き家となって放置されていたという。建物はツタに覆われ、庭は荒れ放題だったのを、都が修復し国指定の名勝として利用されるようになったそうだ。占領軍が出ていくとき、美術品や装飾品も持って行った・・・というので、「だから戦争に負けたらいかんのよ」とツアー客の一人が言うのを聞いて、ぞっとする。
 目黒から庭園美術館へ。ここは1933年竣工の旧朝香宮邸で、全体はアール・デコ調。何といっても印象的なのが、玄関入ったところにあるルネ・ラリック作のガラスレリーフだろう。現在は美術館として使われていて、ちょうど「並河靖之・七宝展」が開催中だった。(並河靖之は京都の工芸家で、三条白川の旧邸が美術館になっており、いつでも作品を見ることができる。) 広い庭園には紅梅、白梅が満開、花を愛でる人の姿が木の間がくれに見えた。東京砂漠なんて嘘、東京には緑が多い、大きな公園がいくつもあるし、素晴らしい庭園が開放されている。却って京都の方が町なかに緑が少ないのではないかしら。市民が自由に遊べる緑の公園といえば御苑くらいしかない。(素晴らしい庭はごまんとあるがみんな有料)。
 最後は再び上野に戻って国立西洋美術館へ。ここは昨年世界文化遺産となった建物で、フランス人建築家ル・コルビュジエ作。ここもたびたび来ているので、パスして国立博物館へ行く。だが一足違いで閉門。中に入れずすごすごと引き返し、向かいの東京文化会館へ入る。ちょうどオペラ公演が終わったところで、客がなだれのように溢れ出て来る。この日は「トスカ」が上演されたらしい。ロビーの一角に東京文化会館を設計した建築家前川國男を紹介するコーナーがあった。前川國男は京都会館(現ロームシアター)を建てた人でもある。上野のこの建物も半世紀になるようだが、その愛され方は京都の比ではないと思われた。(来月、京都ロームシアターで上演されるオペラ「カルメン」を観る予定だが、指揮者の小沢征爾さんは大丈夫かしらん。) 上野の会館ロビーの壁一面に置いてある音楽会の案内チラシの多さに目を奪われる。まさにより取り見取り、毎日どこかで演奏会があっているのだ、さすが首都と感心した。(すっかりおのぼりさんと化した一日でした)

 写真上は旧古河邸。今年が創建100年で、バラ園が盛りのころ記念行事があるそうです。小川治兵衛の手になる日本庭園も素晴らしいものですが、建物から日本庭園へ降りる途中にあるバラ園も見事なものだした。花盛りのころ、再訪できたらと思います。写真下は旧朝香宮邸、現在は東京庭園美術館の玄関にあるガラスレリーフ。

武蔵野行

Img_2741 2月15日(水)晴れ。古い建築物を訪ねるツアーに参加して関東行。新幹線で静岡まで行き、そこから貸切バスで御殿場へ。この日は滅多にない快晴で、雪をいただく富士山がくっきり。御殿場では故人となった政治家の旧邸を見学す。標高500メートルほどのところにあり、まだ雪が残っている。茅葺の大きな門をくぐり竹林の中の道をあがっていく。邸の前庭に樹齢400年という椿の大木があった。空気は澄み渡り、冬枯れの木々の梢に野鳥の姿が。建物は吉田五十八の設計で、すっきりとした数寄屋造り。趣味は悪くないが、こんなところで英気を養っていたのかどうか、これではとても庶民の暮らしなど想像もつかなかっただろうな、と思う。このあと高速を経由して、横浜の金沢文庫へ。近くの野島公園内にある旧伊藤博文別邸を見学。ここは1898年の建築で、別荘として使われたもの。庭先はすぐ海で、岸近くにカモが数多遊んでいた。伊藤博文がここを訪れるときは、船で来ていたという。庭先にたくさんの灯篭が立ち並んでいるのは、船がその灯りを目印にしたからだろう。海辺の風景には懐かしいものがあり、立ち去りがたい思いがした。

このたびの旅のお供は ●倉本一宏『藤原伊周・隆家』(ミネルヴァ書房)。歴史物語との違いを一つ一つ拾いながら読む。

二月花形歌舞伎

Img_2727 2月14日(火)曇り。大阪の松竹座へ二月花形歌舞伎を観に行く。出演者は尾上松也、中村歌昇、中村壱太郎などの若手役者で、この日の題目は「義経千本桜 渡海屋大物浦」と舞踊「三人形」。幕間に楽屋へ行き、大役平知盛を演じ終えた松也を見舞う。縁があって若手の芝居を観ているが、追いかけるほどのファンではない。芝居の途中でときどき、このテンポはなんとかならないかと思うことがあるくらいなのだから、根っからの歌舞伎愛好家とはいえないだろう。「義経千本桜」の終り近く、知盛が覚悟を決めて海に身を投じるシーンで、隣席の年配の女性が身をよじって泣いたのには驚いた。悲運の知盛に同情したのだろうが、松也の迫真の演技に涙を誘われたのだろう、いや、私はこちらに感動した。
 松竹座は道頓堀近くにある。芝居のあと、川沿いに設けられたプロムナードをそぞろ歩く。いっぱいの観光客を乗せた船が戎橋の下を潜り抜けていく。橋の上には記念撮影の人の群れが、そのほとんどが外国人なのはいずこも同じ。川の両側に立ち並ぶにぎにぎしい原色の看板に目を奪われる。京都では見かけない風景なり。
 梅田に戻り、阪急かっぱ横丁の古書店を覗いたあと、阪急電車で京都へ戻る。
古書店で本をいくつか購入。『芭蕉のうちなる西行』は誰かに貸したまま返ってこないので。

●池澤夏樹『雷神帖』(みすず書房)
●目崎徳衞『芭蕉のうちなる西行』(角川選書)
●四方田犬彦『星とともに走る』(七月堂)

 会いたい人はみんな遠くに去り(あの世)、読みたい本はみんな古いものばかり、何をしても「おもろうてやがてかなしき・・・」という心境をいかんせん。ああ虞や虞や汝をいかんせん・・。

2017年2月28日 (火)

平八茶屋

Img_2719 2月13日(月)晴れ。歴史に「たら、れば」はないと言われるが、それでも「もし〇〇が生きていたら、あの時死んでなければ」と思うことがある。京都は幾層にも歴史が積み重なった街だから、町歩きをしながらよくそう思う。今年は漱石没後100年というので、新しい全集が出たりしているが、もし漱石が京都に住んでいたら・・・と思うことがある。漱石は生前、4回ほど京都を訪れているが、最もよく知られているのが明治40年3月の滞在だろう。京都帝国大学の文科大学長だった狩野亨吉に招聘されたもので、狩野は漱石を京大に招きたかったのだが、断られている。根っからの江戸っ子だった漱石が京都に住んでいたら・・・と思うと愉し

Img_2721い。学生たちは「ぞなもし」などとは言わなかっただろうが、短気な教師をじらしたりすることがあったにちがいない。明治40年3月、京都に滞在して狩野亨吉と比叡山に登ったときのことが「虞美人草」の冒頭に書かれている。二人の男が比叡を目指して歩いている場面で、歩くのに疲れた男が「今日は山端の平八茶屋で一日遊んだ方がよかった。今から登ったって中途半端になるばかりだ」と愚痴をこぼすシーンがある。とろろ汁で有名な平八茶屋はいまも山端にあるが、漱石はこれより以前に子規とこの店に来て、川魚料理を食べたことがあった。
 読書家の友人が遊びに来たので、平八茶屋で食事をした。昼食は川を望む部屋でいただく懐石だったが、最後に麦飯ととろろ汁が出た。この店の創業は天正年間だというからもう440年近くになる。店の前にある大きな門は萩の寺から移築したもので、こちらは店より古いというので、漱石没後100年はまだ新しいね、と笑いあったことだ。
 食後、店を出る前にもう一つの名物「かま風呂」を見せてもらった。近くの八瀬がかま風呂の本場だが、ここでも頼めば利用することができる。かま風呂は土造りのサウナといったふうで、清潔。お店の人が「壬申の乱の折、背に矢傷を負った大海人皇子がかま風呂で傷を養生した。八瀬の地名は矢背からきたといわれています」。なんと壬申の乱といえば7世紀、1400年も前のことではないか。創業440年に驚いていたのがおかしかった。

(漱石を招聘できなかったが、この時、幸田露伴や内藤湖南が招かれて京大で教えている。もっとも露伴は一年もいたのだろうか、さっさと江戸、いや東京に戻ってしまった)。

 写真上はとろろ汁。下はかま風呂。

2017年2月11日 (土)

夜色楼台図

Img_2711 2月11日(土)曇り。今朝、6時半ごろ、カーテンを開けて外を見ると、西の空に丸い月が浮かんでいる。これまで見たことがないほど大きな月。満月は今夜だから、14夜の月か。愛宕山の西裾にひときわ輝いて、みるみるうちに隠れてしまった。町は家々の屋根が薄く雪化粧して、その様は蕪村の『夜色楼台図』のよう。
 今日、2月11日は亡き父の誕生日。母の誕生日は2日後の2月13日なので、両親が元気だったころは毎年二人まとめてお祝いをしていた。7年前に母が亡くなってからはもうお祝いをすることもない。今朝は二人の写真におめでとうと声をかけた。
 梅宮神社の梅が咲きだしたというニュースに、少し春ある心地す。「木の花は こきもうすきも紅梅。」とは清少納言のことばだが、『枕草子』を愛した兼好法師も、「梅は白き・薄紅梅。一重なるが疾く咲きたるも、重なりたる紅梅の匂ひめでたきも、皆をかし」(『徒然草』第139段)と書いた。桜のような華やかさはないが、凛とした梅の花を待つ心持は2月のものですね。

 写真は今朝の月。愛宕山と嵐山の間、小倉山の後ろに沈んでいくところです。

春の雪

Img_2701 2月9日(木)曇り時々雪。終日山は真っ白。寺町通の店のウインドウに菜の花が飾ってあった。壺は古い丹波か信楽か。そこだけ明るく一足早く春が来た感じ。寒波襲来とて、京都市内でも雪がちらつく。「太郎を眠らせ、太郎の屋根に雪降りつむ 次郎を眠らせ、次郎の屋根に雪降りつむ」という詩を思い出す。もう一つ、雪が降ると思い出す話に「徒然草」の一章がある。「『降れ降れ粉雪、たんばの粉雪』といふ事」で始まる第181段で、続けて「米搗き篩ひたるに似たれば、粉雪といふ。『たンまれ粉雪』と言ふべきを、誤りて『たんばの』とは言ふなり。・・・・・鳥羽院幼くおはしまして、雪の降るにかく仰せられける由、讃岐典侍が日記に書

Img_2708きけり」。鳥羽院が幼いころ、雪が降るのを見て、こうおっしゃった、と『讃岐典侍日記』にあるという話。讃岐典侍は鳥羽院の父である堀河天皇に仕えた女性で、堀河天皇の死後、その子である鳥羽天皇にも仕えてその日々を日記に遺した。彼女が幼い鳥羽の世話をしながらその父を思い出して涙ぐんでいると、鳥羽は「みな知りてさぶらふ。ほもじのりもじの事思ひ出でたるなめり」(「みんな知っているよ。ほの文字りの文字の事を、思い出しているんでしょ」)と仰せらるるは、堀河院の御事と、よく心えさせ給へると思ふもうつくしくて・・・」と讃岐は記しているが、まあなんともおませな幼帝だったことよ。
 夕方から洛西の日文研行。「左経記」長元元年(1028)に入る。洛西は京都市内より気温が低いのか、玄関前や中庭にまだ白く雪が残っていた。

 春の雪

 みささぎにふるはるの雪 
 枝透きてあかるき木々に 
 つもるともえせぬけはひは

 なく聲のけさはきこえず 
 まなこ閉ぢ百ゐむ鳥の
 しづかなるはねにかつ消え

 ながめゐしわれが想ひに
 下草のしめりもかすか
 春来むとゆきふるあした

(伊東静雄 『春のいそぎ』)

2017年2月 7日 (火)

三月書房

Img_2703 2月6日(月)曇り。三月書房の創業者である宍戸恭一さんが亡くなられた。享年95歳。阪神淡路大震災のすぐあとに移り住んだ京都で、真っ先に訪ねたのがこの書店だった。そのとき宍戸さんは店に出ておられたものやら、もう今の店主(息子さん)に代わっていたのではないか。どう見ても古本屋にしか見えないのだが、中に入ると人文書の宝庫で、マイナーな雑誌や詩集など、ここにしかない本をずいぶんと入手したものだ。消えた出版社の本が自由価格(たいていは半額)で並べてあって、小沢書店の本など手に入れることができた。吉本隆明の本が揃っているのは、店主とのつながりImg_2700_2

が深いせいだろう。三月書房が自分の書斎なら、と夢見る客は多いはず。私もいつもそう思う。これが自分の書棚ならと、うっとりと思う。三月書房がある寺町通りは最近、充実している。もともと骨董屋や老舗の茶屋、紙店、菓子屋が連なるしっとりとした通りだったが、近年、さらに洒落た店がたくさん生まれて、なかなか趣味のいい通りとなっている。
 通りにある下御霊神社に「社殿等修復事業御奉賛のお願い」の張り紙があった。この神社の寂れ方といったら、築地は破れ、壁は落ち、蔵は傾いていまにも崩れそう、本殿の屋根はグスグス、上御霊神社の立派さを思うにつけ、何故こんなになるまで放っておくのかと不思議でならなかったのだが。ようやく修復工事をすることになったのかと他人事ながら安心して、心ばかりの寄付をしてきた。下御霊神社は承和6年(839)創建の古社で、現在の本殿は宮中の内侍所を移築したものという。いまは白梅が満開だが、今月末には二本の紅梅が盛りとなる。「梅遠近南すべく北すべく」(蕪村)の日々となるのも間近。下御霊神社のすぐ南に、西国三十三観音霊場の一つ革堂(行願寺)がある。京の七福神の一つ、寿老神はここで、巡礼に交じって七福神めぐりの人の姿も見かける。
 この日は寺町通りにあるうつわや「直向(ひたむき)」で、中くらいの皿を入手。大阪でやきものづくりをしている中尾万作という人の手になるうつわ。白地にすっきりと黄色い円が描かれただけのもので、円の形がおのおの異なるのが愉しい。夜、早速豚の角煮を盛っていただく。使い勝手よし。明日は何を盛ろうかしら、楽しみが増えました。

 写真上は三月書房。下は向かいにある版画店の店先。もう春です。